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東京高等裁判所 昭和59年(う)1266号 判決 1985年9月30日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

第一控訴の趣意及びこれに対する判断

本件控訴の趣意は、弁護人石島泰作成名義の控訴趣意書及び控訴趣意補充書、同西田健作成名義の控訴趣意書並びに同安井桂之介作成名義の控訴趣意書にそれぞれ記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官左津前武作成名義の答弁書に記載のとおりであるから、いずれもここに引用する。

各論旨は、要するに、被告人にはZ及びrを殺害する意思はなく、また、同人らの殺害を原判示Bほか五名と共謀した事実もないのに、原判決は、事実を誤認し、刑法六〇条の解釈適用を誤つて(但し、西田弁護人は、事実誤認のみを主張。)、被告人を右Zら殺害の共謀共同正犯と認定したものであつて、右の誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、これを破棄して被告人を無罪とされたいというのである。

そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて所論につき検討するに、検察官提出にかかる全証拠を総合しても、被告人が、Zほか一名を殺害する意図を以て、Bほか五名の者と共謀を遂げた事実を、合理的な疑いを容れる余地のないまでに、認定することはできないものというほかない。従つて、本件訴因につき被告人を有罪と認定し、懲役一七年の刑を科した原判決は、その事実認定を誤つたものであつて、破棄を免れない。論旨は理由がある。

以下、当裁判所が右の判断に達した理由につき、説明する。

第二本件の争点

原審認定のとおり、Z外一名を直接刺殺した実行者はD、Fの両名であり、現場に臨んで両名と行動を共にした原判示「実行グループ」には、この外A、C、Fの三名が居り、さらに、右実行グループと接触のあつたBも共謀者とされている。

右のように、被告人は本件の実行行為には直接関与していない(本件紛争の発端となつたZらによる殴り込みから、Zほか一名の死亡による終局までの間、被告人は、被害者らと直接顔を会わせたことがないのはもとより、電話等ですら接触していない。)。従つて、被告人がZほか一名の殺害につき刑責に問われ得るとすれば、右実行者らとの共謀による共同正犯の法理に依る以外にない。

然るところ、「本件証拠上も、被告人が、右実行者ら、ないしその余の実行グループの者らに対し、直接、Z殺害をあからさまに指示した、というような事実は認められない」ことは、原判決も明示するとおりである(原判決一九丁裏七行目以下)。

しかしながら、原判決は、右に引き続き、原判決挙示の「各証拠を総合して認められる本件に至る経緯、特にその間における被告人及び輩下組員らの言動に照らせば、被告人は、事の成行き上、輩下組員らが、判示『殴り込み』に対する報復として、Zを殺害し、その目的達成のため必要があればこれを警護する者らをも殺傷する事態となることを十分に予測しつつ、これを容認しており、かつ、直接に接触していたB及びCに対しては、そのような心境をそれとなく示していたこと、そして、これにより、被告人の意のあるところを察知し、その意向を実現することを決意したB及びその指揮下にあつたA以下Cを含む実行グループの者たちが順次共謀を遂げ、ついに本件犯行に及んだことを認定するに足り、従つて被告人が本件につき共謀共同正犯として責任を負うべきことは明らかである」旨説示している。

これに対し、各所論は、原判決が右のような判断をするに至つた前提となる個々の間接事実の認定に誤りがあるのみならず、間接事実を総合して主要事実を認定する推理判断の過程にも誤りがある旨、縷々論難している。

ところで、原判決の「認定事実」は、三部に分かれ、一「被告人の身上、経歴等」、二「本件に至る経緯」(1ないし9)及び三「罪となる事実」(1、2)によつて構成されているのであるが、右のうち「被告人の身上、経歴等」の認定については特に問題はなく、また、「罪となる事実」の摘示についても、被告人とB及びA以下の実行グループとの間の共謀の存在に関する部分を除けば、実行グループに属する者らの行動経過、実行行為及び結果発生に関する原審の認定に特段の争いはない。従つて、問題となるのは、「本件に至る経緯」の部分であり、ここでは、外形に現われた関係者の言動(たとえば、成増マンションのエレベーター内におけるBの発言)の存否自体のみならず、個々の言動をなすに際しての関係者の心情、意図、これに対する相手方の理解、判断、感応等の主観的側面の認定、解釈、評価が重大な争点となつているのである。

そこで、原審の記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌しつつ、これらの点につき仔細に検討することとするが、右に述べたような本件における争点の性質に鑑み、まず以て証拠上認め得る関係者の客観的言動を確定し、これによつて窺い得る前記の主観的側面の認定及びこれに対する解釈、評価等は、できる限り前者と分離して別途に判断することとする。

第三前提となるべき事実

一関係組織及び関係者

1  土支田一家及び土支田会

博徒住吉連合土支田一家は、東京都板橋区徳丸○丁目××番△△号に居住するGを八代目総長(組員の間では、「総長」又は「徳丸」などと呼ばれている。)とし、江古田及び桜台を縄張りとする被告人ら、約二〇名の貸元が居り、組員の総数は約一五〇名を数える組織である。右のように、土支田一家は、博徒としての組織であるが、各貸元が博徒以外の稼業で生計を立てている関係では、別途に土支田会という組織を作つており、被告人がその会長を勤めている。

被告人(住吉連合相談役・土支田一家貸元・土支田会会長・H組組長)と兄弟分の関係にある貸元は、土支田会常任理事であるI、J、K、L、Mらである。なお、被告人は、元住吉連合副会長・土支田会事務長のNとも兄弟分であつたが、同人は、昭和五五年九月ころから埼玉県戸田市○×三一一三番地において政治結社「日照塾」を主宰し、土支田一家・土支田会を脱退している。また、被告人は、昭和五六年五月ころ、渋谷警察署の留置場で住吉連合江島一家O組組長Oと知り合い、同人が被告人の舎弟であるBの旧友であつたことから親交を深め、組長を名乗つてはいるが固有の縄張りを持つていないOに対し、自分の養子になれば江古田の縄張りをやり、住吉連合副会長にしてやる旨申し向け、Oも乗気になつていたが、未だ実現を見るに至つていなかつた。

2  H組及び株式会社目黒総業

被告人は、昭和四五年ころ、土支田一家七代目総長Pの下で江古田地区の貸元をしていたQことRの舎弟となり、やがて自ら土支田一家H組を組織してその組長となり、事務所を東京都練馬区桜台○丁目×番△号小梅マンション四〇五号室(以下「桜台の組事務所」又は「桜台」という。)に置き、組織を統括するほか、前記のように、住吉連合相談役、土支田会会長の職に任じていた。H組は、代貸A、若衆D、同F、同Sらの組員を擁しており、また、正規の組員ではないが、Fも「H組内(うち)」との扱いで同組や後記目黒総業に出入りしていた(舎弟については後述)。

他方、被告人は、昭和四一年ころから東京都板橋区において株式会社H組、同四四年ころから本籍地の横浜市港北区において株式会社三友建設を経営し、土建業を営んでいたが、同四七年ころから千葉県市川市大和田○丁目××番△号に転居し、目黒建設名義で、原判示のようにいわゆる「人夫出し」の仕事を始め、同五五年ころ、株式会社目黒総業(代表取締役T。以下「目黒総業」という。)に改組し、自宅敷地内の飯場に集めた人夫を住まわせて「人夫出し」の仕事を続けるとともに、一部建築工事の請負もするようになつた。目黒総業の職員としては、工事部長U、事務員Vらが居る。

3  本件の関係者等

① B(昭和二一年一月五日生。本件により懲役一六年の刑確定)は、もと住吉連合平塚一家浅草南組の若頭相談役をしていたが、同組が解散した後の昭和五一年から同五二年にかけて府中刑務所で服役し、出所後は山形県新庄市で会社を経営していたところ、同五三年、服役中に知り合つた被告人が出所して来て、土支田会への加入を勧誘したので、平塚一家への遠慮から住吉連合土支田一家には所属せず、土支田会のみということで、かつ、「A′」という名前を使うこととして、土支田会東北支部長に就任し、被告人の五厘下りの兄弟分(舎弟)となつた(従つて、Bは土支田一家H組の組員ではないこととなる。)。

その後、Bは、自己の経営していた会社が倒産したため、舎弟のWを土支田会東北支部長代行とし、昭和五五年ころ上京し、本件当時は埼玉県所沢市×△二一九八番地の二一に妻子とともに居住していた。なお、本件犯行の約半月前ころ、山形県から舎弟のXと若衆のYが個々B方を訪れ、犯行当時まで寄食していた。

② C′ことC(一九四八年七月一一日生。本件により懲役一五年の刑確定)は、埼玉県朝霞市に居住していたが、昭和五五年九月ころ、恐喝未遂事件を起こし、朝霞警察署より指名手配されてからは妻子と別居し、被告人の舎弟分格であるaを頼つて目黒総業の食客となり、雑用を手伝う傍ら、被告人の舎弟bの補佐としてH組の組員とも接触していた。しかし、aは、元極東関口一家の若衆で、極東との縁が切れていないため、目黒総業の取締役にはなつているが土支田一家には入つておらず、aの舎弟であるCも、被告人の舎弟分格として扱われているが、正式には土支田一家には入つておらず、義理場に顔を出したり、チラシに名前を載せたりしていない。Cは、桜台の組事務所には殆ど出入りせず、H組の組員との接触は、電話によるか、目黒総業の手配師が人夫を集める池袋駅西口公園傍の喫茶店において行なつていた。Eは、本件犯行の二、三か月前からは、埼玉県入間郡三芳町のC方に居住していたが、昭和五六年九月二八日ころ、高熱を発してaの情婦であり、池袋のホワイトレディース・クラブのホステスであるd方(東京都板橋区△○一丁目一番一一号)に厄介になり、平癒後もそのまま本件犯行時まで同女方に寄寓していた。

③ A(昭和二三年一一月一三日生。本件により懲役一七年の刑確定)は、昭和四九年ころ被告人と知り合い、H組の若衆となり、目黒建設の手配師をしたりしていたが、同五二年一月ころから同五三年一月ころまで長野刑務所で、同年一〇月ころから同五五年二月ころまで広島刑務所でそれぞれ服役し、広島刑務所出所後、H組の代貸になるとともに、住吉連合評議員、土支田会理事となつた。また、目黒総業の取締役に列せられているが同社の仕事はせず、同年八月ころ被告人の保証で小岩信用金庫本八幡支店から借りた資金を元手に個人で小口の金融や手形割引などを営んでいた。同五六年一〇月一八日は、早朝、被告人らと府中刑務所に放免迎えに行つた後、eとともに山形県東根市の東産業こと某方へ一〇〇〇万円の手形を割り引いて貰う用件で出向いていた。

④ D(昭和二〇年六月二八日生。本件により懲役一七年の刑確定)は、やくざとしての経歴は長いが、一旦堅気となり、昭和五二年七月ころ目黒建設に人夫頭として入つたが、同年一〇月ころからH組組員となり、同五五年九月ころまで目黒総業の手配師などをしており、その後は借金の取立などをして生活していた。昭和五二年ころから妻子と別居し、犯行当時は東京都豊島区○○△一丁目六一二番地第△△×荘でfと同棲していた。

⑤ E(昭和二二年三月一四日生。本件により懲役一二年の刑確定)は、やくざとしての経歴があるが、昭和五三年ころからH組内として目黒総業の手配師の仕事に従事し、桜台の組事務所に居住していたものである。

⑥ F(昭和三八年一一月四日生。本件により懲役五年以上一〇年以下の刑確定)は、昭和五四年一〇月ころ、池袋でDに声をかけられて目黒総業の人夫となり、一か月位してH組組員となり、目黒総業の事務や手配師の仕事をした後、同五六年九月ころからは桜台の組事務所に居住し、電話番をしていたものであり、本件犯行当時満一七年の少年であつた。

⑦ S(昭和二二年一一月八日生)は、昭和五三年二月ころAに誘われて目黒建設に人夫として入り、まもなくH組組員となつたが、同五五年ころ無断で一旦組を脱け、同五六年八月ころAの舎弟という形で組に復帰し、市川市の目黒総業の近くのアパートに居住していたものである。昭和五四年ころ、土支田会の月寄りの席上、土支田一家総長のGが、「土支田会に二、三人の特攻隊を作り、女房、子供が遊んでも食えるようにしたらどうだ」と提案したことがあるが、その翌日、Sは、被告人に対し、特攻隊に推薦して欲しいと申し出た。その後、特攻隊の話は立ち消えとなり、結成されるに至らなかつたが、てんかんの持病のあるSは、被告人に対し、自分は病気持ちで何も出来ないから間違いがあつたときに使つてくれと申し出ており、被告人も、刑務所に入つて身体を治してくればよいなどと考えていたのである。

⑧ 「おつこ」ことg(昭和三六年一〇月二七日生)は、「龍子」の名で、「もつちやん」ことh(昭和三六年七月四日生)は、「司」の名で、いずれも池袋駅西口にあるキャバレー「○○」にホステスとして勤めていたものである。被告人は、昭和五六年八月ころ「○○」でgを知つて付き合いを始め、ホテルなどに泊つて市川市の自宅には殆ど帰らないようになり、同年一〇月初ころからは、東京都豊島区○○×五丁目一番四号所在のベルメゾン○○×××号室にgを住まわせ、「○○」を辞めさせて生活費を与えていた。Cは、被告人らと「○○」に行つた際hと知り合い、同年一〇月上旬から付き合いを始めて、北区滝野川の同女方と「○○」間の同女の送り迎えを毎日車でするようになつていた。gとhは幼馴染であつたため、gが「○○」を辞めた後も、Cとhの両名でベルメゾン○○のg方を訪れたりしていた。

4  被害者側の組織及び関係者

① 的屋極東関口本家二代目山口分家iの下には、代行j、i分家を名乗るk及びZ、i一家を名乗るl、m及びn、実子分のo及びpらの幹部が居り、これら幹部の若衆を含め、約四、五〇名が露天商を稼業としている。iは、qを会長とする関口会の副理事長や東京街商組合支部城北睦会の会長を兼ねている。

② Z(昭和一三年九月一三日生。本件被害者)は、昭和四二年ころiの若衆となり、同四九年ころ分家名乗りを許されてZ組組長となつたが、後記のように被告人と親交があり、被告人の服役中目黒総業を預つたりしたことから、人夫出しの仕事に興味を持つようになつていた。Zは、昭和五六年六月一八日に府中刑務所を出所し、同年七月下旬ころからi方と道路を距てた向い側の東京都板橋区○○三丁目一〇番八号第二△△荘一〇六号室で生活していた。

③ r(昭和一九年三月二一日生。本件被害者)は、昭和四八年ころ、i一家幹部のsの若衆となつたが、その直後、sが不義理をして一家名乗りを剥奪されたため、一時埼玉県朝霞市在住のi一家mの預りとなつた後、同五六年九月ころからiの預りとなり、同人の事務所に居住していたものであるところ、本件被害当夜は偶々右事務所で若衆が麻雀をしていたため、止むなくZの居室に泊つていたものである。

二本件に至る経緯

以下の認定事実は、原判決の認定事実二「本件に至る経緯」の部分に対応するものである。原判決は、これを1ないし9の九項目に分けて説示しているので、対照の便に資するため、本判決においても、これと同一の項目に分け、各項の見出しには原判決に付されている見出しを< >を付して用いることとした(その余の見出しは、当審において付したものである。)。

1  <Zとの確執>

被告人は、昭和四七年ころ、東京都板橋区常盤台の彫師の家でZと知り合い、同人が同四九年四月傷害罪等による懲役一年の刑を終えて出所し、i分家を名乗るようになつてから、同人の申出により同人と兄弟分となつて親交を深めていた。ところが、被告人は、同年六月ころ、Zら数名と共謀して金融ブローカーに対する監禁致傷等の事件を起こし、同五一年一月一二日東京地方裁判所において懲役二年の判決を受け(同月二二日確定)、それ以前に執行を開始されていた覚せい剤取締法違反の罪による懲役七月の刑に引き続いて、右刑の執行を受けることとなつた。被告人と同時に懲役一年六月の刑を言い渡されたZは控訴して保釈となつたので、被告人は自己の服役中の目黒建設の面倒を見ることを同人に委託した。

Zは、人夫の取扱いが荒いのみならず、手配師のを殴つて一か月も入院するような怪我をさせたり、Aを目の仇にして屡々殴打したりしたうえ、Aを庇つた被告人の妻Tまで殴るような粗暴な行為が多かつたが、さきの事件につき控訴審で言い渡された懲役一年二月の刑が同五二年四月二三日上告棄却により確定し、同年六月一〇日からその執行を開始され、さらにその後強盗罪等により言い渡された懲役三年の刑も、引き続き執行されることとなつた。

被告人は、翌五三年四月二〇日に刑期を終え、府中刑務所を出所したが、同年暮ころ、Zの舎弟であるtの放免祝いの際、i分家kから、Zの服役中はZの妻に月々金を届ける約束ごとになつているのに何故履行しないかなどと詰問され、妻に聞かなければ事情が分からないが、Zが出所して来たら会社の一つも世話してやる旨回答した。被告人は、妻Tに事情を確かめると、Zの妻に対する送金はしていたが、人夫が減つて手元不如意となつたのでZのために出してやつた保釈保証金一二〇万円を返して貰わなくてもよいということで話合いをつけたこと、Zはやに乱暴したのみならず、被告人の実姉uや義母vの三女wらにも手を上げたこと、その他被告人の服役中におけるZの傍若無人な行状を聞かされて立腹したが、その後、義理場でiからZが出て来ても喧嘩するなと頼まれ、大丈夫だと返事していた。

被告人は、昭和五六年四月ころ出所して来た土支田会常任理事x(Iの舎弟)から、服役中の土支田会相談役y(Iの兄貴分)よりの伝言として、極東のZが刑務所の中で被告人のことを悪く言つているらしいが、放免の時は迎えに出てくれ、Zとは喧嘩するなと聞かされた。同年六月一八日、Zが出所した際、被告人は土支田会会長として約六〇名を連れて放免迎えに行つたが、Zは、被告人が挨拶しても礼も言わず、「話がある。後で会おう」と言つただけであつた。約一週間後、両名は池袋駅西口の割烹「新平家」で会談し、被告人は、Zが人夫出しの仕事をしたいから手配師と飯場と仕事先をくれと虫のよい要求をしたのに対し、手配師は出せない、飯場と仕事先は捜して世話してやると約束し、Zもこれを了承した。

被告人は、Zの飯場として、空いていたNのプレハブ二階建宿舎を斡旋し、Zを連れて行つたが、内装費用が嵩むとの理由で借りるに至らず、その帰途、定価三五万円位のプラチナ台ダイヤ入り指輪を同人に買い与えたりした。また、仕事先として数か所に話をしたがなかなか見つからず、収入のないのに苛立つたZは、iや兄弟分達も成行を心配しているなどと、組の勢威を仄かして催促するようになり、同年八月初ころ、電話で被告人の妻に対し、仕事をいつまで待たせるのか、俺を殺す気なら手前らを殺してやる、これが最後通告だなどと脅しをかけ、これを聞いて憤激した被告人と電話で険悪なやりとりをしたが、最後には口調を改ため、何とか仕事の話をつけてくれと懇願したので、被告人も数日後に会うことを約束した。被告人は、これ以上延引するとZが何をしてくるか分からないと考え、江戸川区西葛西にある東京都汚水処理場建設工事現場の仕事(大成建設株式会社が元請、貞光建設工業株式会社が下請で、目黒総業が貞光建設に雑役人夫を供給している。)をZに譲り、二〇〇名位を収容している貞光建設の飯場のうち、目黒建設が使わせてもらつている一〇人用の部屋二間をZの飯場として提供することとし、約束の日にZにその旨を伝え、同人もこれを了承した。

被告人は、工事部長のUとともに貞光建設に赴き、同社葛西作業所の責任者である常務取締役の了解を得た後、池袋の喫茶店で、Zに対しUを紹介し、貞光建設の了解を得たことを告げたうえ、今後仕事の話はUとするように申し向けた。被告人は、Zに対し、同人が集めて来た人夫を貞光建設に送り込めば、その人数分だけ目黒総業から出している人夫を減らすと約束していたが、当時は仕事が少なく、目黒総業から貞光建設に出す人夫は五人でも多過ぎる位であり、お盆過ぎには仕事が増えるという常務の話もあつたため、Uに対し、Zを葛西の現場へ入れるのは仕事が忙しくなつてからにしろと指示しておいた。その後、思うように仕事が増えず、約束の履行は延引していたが、この間、同年九月下旬ころ、目黒総業で葛西の現場の責任者をしており、人夫に渡すべき労災保険金を一〇〇万円余使い込んで会社に弁償すべき立場にあつたをZが強引に自己の配下に引き抜くようなこともあつた。Zは、に手配師をさせようとしたが、経験のないでは人夫を集められないため、当面、目黒総業から人夫三名をやることとなり、そのことは被告人も了承していたが、三名で足りない場合に目黒総業から出す応援人夫については、一名につき七五〇〇円を要求する目黒総業と七〇〇〇円しか払えないとするZ側の話し合いがつかず、被告人は同年一〇月一六日ころ、Uに対し、七五〇〇円の線は絶対に譲つてはならないことを強く指示している。Uは、同月一八日午後一時ころ、Z、と待ち合せて葛西の現場へ行き、目黒総業の五名の人夫の意向を聞いたところ、うち三名はZの下で働らくことを拒否したので、荷物を纏めて目黒総業に帰るよう指示し、Zとには代りの人夫を出すから心配するなと話し、Zらと別れて事務所に帰り、明日から葛西の現場に人夫を回す手配をして帰途についた。

2  <Zの「殴り込み」>

① (第一回殴り込み) Z及びの両名は、同日(昭和五六年一〇月一八日)U工事部長と別れた後も葛西の飯場に残り、目黒総業の人夫達と話をしていたが、午後三時ころ、の運転する車で飯場を出、葛西駅前でZが一旦姿を消した後、午後四時ころ、ライトバンで来た三人の男と合流して市川市の目黒総業に向つた。五名は、午後五時一〇分ころ、目黒総業に乗り込み、Zにおいて、事務員のVに対し、「おやじを出せ。姐さんはどこへ行つた」と怒号し、被告人もその妻も不在と知ると、「おやじが出てくるまでばあさんと子供を預つてゆく」と騒ぎ立て、女子供に手を出すなら代りに自分を連れて行けと申し出たVを目黒総業から約三〇〇メートル離れた市川市○△○四丁目二番二号の飲食店「石狩」(Zの舎弟であるの経営)に車で連行し、同所でVに対し、桜台の組事務所や代貸のA方などに架電させて被告人の所在を探索させたうえ、庖丁を示して「おやじが出て来ないとお前の指を一本ずつ落すからな」と脅迫したり、お前の会社がこれだけになつたのは俺が基礎を作つたからなのに、お前のおやじからの返りが少ない、納得行くように話がつかなければ、おやじが死ぬか俺が死ぬかだ、これは極東と住吉のぶつかりなんだぞなどと言つていた。

② (第二回殴り込み) Zは、同日午後六時ころ、「石狩」からi一家の幹部らに電話し、話がつかないので喧嘩になるかも知れない、これから乗り込むから千葉まで来てくれなどと応援を依頼し、これに応じて同日午後八時ころ、i一家のo、mやその若衆などが参集し、総勢一五、六名となつた。午後八時三〇分ころ、Zは、おやじが出て来ないならUと話をするしかないと言つて再びVを車で連行し、全員を引き連れて目黒総業に乗り込んだ。Zら数名は、Vを連れて事務所内に入つたが、帰宅途中で目黒総業に電話し、急を聞いて引き返しているUは、未だ到着していなかつた。Zは、自ら餅つき用の杵を振るつて娯楽室入口のガラス戸を叩き割り、配下に命じて人夫の、、らに暴行を加えさせ、傷害を負わせるなどの乱暴を働らき、偶々様子を問い合せるため目黒総業に架電して来たCに対し、自ら応対に出て「会長も、姐さんも、お前も皆命を取る、これは戦争だ」と放言した。まもなく警察官が多数臨場し、午後九時一〇分ころにはUも到着した。Uは、昼間会つて話したばかりじやないか、仕事の話だつたら一人で来い、こんなに大勢連れて来て何をやつてるんだとZを叱責したところ、Zは、飲んでいたらいろいろと面白くなくなつて来たんだよなどと弁解していた。Uは、仕事のことだから大丈夫ですと警察官に引き揚げてもらい、Zには明日葛西の現場に行き、事務所に挨拶に行くことにしようと約束して帰らせた。

3  <被告人の対応―輩下の呼び集めと「道具」調達の試み>

① 被告人は、同年一〇月初ころからは、殆ど毎日「龍子」ことgのために借りてやつた前記ベルメゾン○○×××号室に寝泊りしていたが、同月一七日の夜は豊島区○町の光マンション×××号室に住むホワイトレディース・クラブのホステス「あきら」こと方に宿泊し、翌一八日午前四時ころ、府中刑務所の放免迎えに直行し、その後ベルメゾン○○に戻つて休息したのち、正午過ぎにgと池袋を出発し、塩原、鬼怒川方面をドライブして午後六時ころ帰着し、池袋西口公園付近の公衆電話から目黒総業の事務所に連絡を入れたところ、Eが出て、極東のZが大勢で目黒総業に殴り込みをかけ、Vをさらつて行つたらしいと興奮した口調で報告した。Eは、池袋で集めた人夫を連れて第一回殴り込みの後で目黒総業に到着していたものであり、被告人との電話で、Zは又来るかも知れない、これは土支田一家と極東の喧嘩だから一戦交えないとなめられますよ、私がZの所へ飛びますから行かせて下さい、会長と連絡が取れなかつたのでNに連絡したなどと報告したので、被告人は、そこは堅気の会社だから余計なことはするな、直ぐNに電話して取り消せとEを叱責し、Zの方から桜台の組事務所に電話があれば、これは喧嘩だからそうなれば俺も動く、お前は直ぐ桜台へ行つていろと命令した。

被告人は、その場から、A、B、Dの自宅に電話し、家人に対し、桜台へ集合するよう伝言を依頼し、また、桜台の組事務所に電話して、Fに対し、Eが市川から桜台に向つているから、事務所から出ないで待機するよう命じ、Sにも連絡して桜台に呼んでおくよう指示した。

② 被告人は、右の電話中買物に行つていたgを同乗させてベルメゾン○○×××号室に戻つたが、同室には入居直後のため電話が設置されていなかつたので、表の赤電話から自宅に電話すると、妻Tが帰つており、その後Zから連絡はなくVの居所も分からない、Uはまだ会社に着いていないとのことであつた。これに対し、被告人は、「Zが又来て暴れるようだつたら、頼みに行くところは一つしかないから分かつているだろう、このことは皆に言つときな」と、再度の殴り込みがあつた際には警察に屈けるよう指示し、また、Tには一番下の娘を連れてAの家に避難しているように命じて×××号室に帰り、gにC′ことCの所在を探して連絡するように依頼した。

③ hとd方に居たCは、gからの連絡を受けて、同日午後八時過ぎころ、hを伴つてベルメゾン○○×××号室に到着した。

被告人は、ダイニングキッチンの中央に置かれた炬燵にCと向い合せに坐り、Zの殴り込みがあつたことを告げ、「Zは又来るらしいからEを事務所に引き揚げさせたが、にのつきり(二度目に)来たら会社でたれ込みするんじやないか。今、事務所に集合かけたが、今動くとこつちがパクられるから表に出ないようにしておけ。Zをやるときは、Sに因果を含め、道具と小遣いの二〇万も持たせて飛ばせるからな」と言つた。Cは、「Zの野郎ふざけた野郎ですね。私がひつつきます(やつつける)よ」と憤慨したが、被告人は、「Sを使うんだからお前ら動くことはないんだ。早く事務所に電話して皆に動かないよう連絡しろ」と命じた。

④ Cは、同室を出て、公衆電話で目黒総業に連絡したところ、前記のとおり、第二回殴り込みに来ていたZから、会長やお前の命を取るなどの暴言を浴びせられ、大いに憤激した(前記2の②参照)。Cは、続いてB方に架電したが、Bは、殴り込みのことは先刻承知している様子で、いつものことだから放つておけなどと気のない言い方をしていたが、遅くなるかも分からないが桜台へ行くからと返事した。Cは、更に、桜台の組事務所に電話し、Eに対し、手出しをするなという被告人の指示を伝えて同室に戻つた。

Cは、被告人に対し、桜台の連中を押さえたことと、Zから桜台へつなぎ(連絡)は来ていないことだけを報告し、Zから浴びせられた暴言については黙つていた。

その後、被告人、C、g及びhの四名は、ベルメゾン○○の裏手にある割烹料理店「みさほ」で夕食を摂ることとしたが、Eは、同店から組事務所に電話したのち、食事もそこそこに車で桜台へ向かつた。

⑤ 被告人は、食事ののち、一旦ベルメゾン○○×××号室に戻つたが、前記のとおり、同室には電話がなく、連絡に不便であることから、同日午後九時三七分ころ、豊島区東池袋三丁目一番五号所在のサンシャインシティ・プリンスホテル(以下「プリンスホテル」という。)一〇三八号室に「福田一夫」の偽名でg、hとともに投宿した。

⑥ Bは、Cからの電話を受けたのち、理髪に行つていた舎弟のXと若衆のYの帰宅するのを待ち、両名を伴い、Yには自宅にあつた柳刃庖丁一本を携行させて桜台へ向かい、用心のため、組事務所から一〇〇メートル位離れた練馬区××四丁目一番三号喫茶店「ラタン」から組事務所に連絡を取り、Cを同店に呼び出して事情を聞いたのち、同日午後九時過ぎころ、組事務所に赴いた。

組事務所にはE、Fが居て、二名とも興奮しており、Fは自分の手に柳刃庖丁をさらしで縛りつけるなどしていたので、Bは、早まらずに落ちつくよう説得し、Fの庖丁を外させて被告人から電話の入るのを待つた。

やがて被告人から電話が入り、応対に出たEに対し、プリンスホテルに投宿していることを告げ、部屋番号と「福田一夫」の偽名を教えたのち、Bに代るように命じた。Bは、いきなり「兄貴、これじやしようがないですよ。どつちにしたつてZをやらなきやしようがないですよ。これじや喧嘩ですからね。Zをやるにしても道具は何もないし、みつともないですよ」と言い、これを受けた被告人は「よし分かつた。今じやあなあ、道具はすぐには集まらないな。俺は福島に行つていることにして、Nの兄弟のところへ行つて道具を借りて来い。Cに車を運転してもらい、一緒に行つて来い」と指示した。

⑦ Bは、H組の組員でないXとYには組事務所を出て付近の飲食店で待機するよう命じ、Nに対しあらかじめ電話で用件を告げたのち、午後一〇時ころCの運転する車で埼玉県戸田市○×のN方に赴き、道すがら車中でCに被告人の指示内容を伝えた。

Bは、Nに対し、市川(目黒総業)に殴り込みを食つた、相手は極東のZだと説明すると、Nは、ZはHの兄弟分じやないか、兄弟分なら喧嘩にならないで話が済むだろう、Hは居ないのかと言い、BがHは福島に行つて不在、代貸のAも山形に行つているというと、Nは、いつもこういうときには居ないなと笑い、被告人が喧嘩をする気もないのに道具を借りるという「場面」を作つていると見抜いて、道具はないと言つた。Bは、電話を借りて目黒総業に様子を訊くと、U工事部長が出て、市川警察が介入して警察官が大勢来ており、Zの方も大勢でごちやごちやしているがすぐ済むと思う旨告げたので、暴力団取締月間でもあるし、警察が介入したのならその場で決着がつくものと思い、Nに対し、道具は結構ですから、心配かけて済みませんでしたと依頼を撤回した。そこへ、Nの指示でけん銃を入手に出かけていた(土支田一家組組長でNの舎弟)が来て、相手が不在でけん銃は手に入らなかつたと報告した。Nは、警察が入つてるらしいからばたばたすることはない、俺は明日フィリピンへ行くが、万一何かあつたらを自宅に置いておくからに連絡しろというので、BとCは礼を述べて辞去した。

⑧ 被告人は、Bらに道具を借りに行くことを指示したのち、目黒総業の状態やZの動きを知るため、同日午後一一時ころ(プリンスホテルのコンピューターによる記録によれば、午後一一時〇一分から一〇分三三秒間。司法警察員作成の昭和五七年一月一三日付捜査報告書、記録第六冊七〇四丁以下。以下、通話時刻の認定は同報告書による。)、自宅に電話したところ、U工事部長が出て、同人が目黒総業に着いたときには、パトロールカー六、七台で警察官が来ていたこと、Vは、の「石狩」に連れて行かれ、会長に連絡を取らされたが、連絡できないまま、無傷で帰されたこと、Zと来た者のうち、知つているのはとだけであつたこと、Zらは事務所のガラス戸二枚を割り、三、四人の人夫を殴打したこと、ZはUの傍に居て、仕事のことだから警察を帰せというので、警察官を帰したこと、Zは、「あとで電話するからな」と言い残して帰つたことなどを報告し、Zがどこに引き揚げるか聞いていないので、居所は分からないと言つた。被告人は、Uに対し、「Zから電話が来たら、Zと会う段取りをしておけ」と命じ、「俺の方からあとで電話する」と言つて自己の居所は知らせなかつた。

被告人は、舎弟にしようと思つている住吉連合江島一家O組組長Oの応援を得ようと思い、同人方に電話したが、不在であつたため、家人に、後で電話するから連絡取れるようにしておいてくれと依頼した。

⑨ BとCは、N方を辞去して桜台に戻り、組事務所の付近で待機していたX、Yを伴つて、プリンスホテルの被告人の居室に向かつた。

4  <プリンスホテル謀議―Z拉致計画>

① BとCは、翌一九日午前〇時ころプリンスホテルに到着し、X、Yの両名を付近の飲食店「バイカル」に待機させ、一〇三八号の被告人の居室に赴いた。

被告人は、同室していたg、hの両名を室外に退去させ、Bらと協議に入つた。

Bは、Nの所へ行つたが道具は借りられなかつた、Bは警察も入つたことだし、今動けばこつちも捕まるだけだから二、三日様子を見たらどうだ、兄弟分のことだし、Hが帰つて来れば話し合いがつくだろうと言つている旨を伝えた。

Cは、Zのような野郎は殺した方がいいですよなどと張り切つていたが、被告人は、「そんな話をしてるんじやないだろ」とCをたしなめ、Nがそういうふうに言つてるんなら二、三日様子を見るか、様子を見たあとSに小遣い銭を持たせてZの所へ飛ばせるか、Iの所の者を使おうか、Oの所でも使つてくれと言つているなどと言い、更に、人夫や土方の恰好をして、分からない車を借りて、iやjの所にぐりぐり押し込み、圧力をかけたらどうだと言つたりした。そして、被告人は、Oのうちに電話を入れたがまだ連絡が取れていない、Oの車や兵隊なら分からないだろうと言つてBにO方に架電させ、自ら電話口に出て、極東のZが市川に乗り込んで暴れた、もしかしたら喧嘩になるかも知れないから、いつでも連絡できるように待機しておいてくれないかとOに依頼した。Oは、被告人の所へ行くから居場所を教えてくれと執拗に言つて来たが、被告人は、待機してくれればいいからと来援を断わり、プリンスホテルの部屋番号だけ教えた(午前〇時一四分から五分五〇秒間通話)。

更に、被告人とBとの間で、Uが明朝Zと会うことになつているようだから、詳しい事情を聞いてみようということになり、被告人の自宅に泊り込んでいるUに電話を入れた(午前〇時二四分から五分五四秒間通話)。被告人とBは、交互にUと通話したが、被告人は、Uに対し、明日市川警察署に対し、会社と怪我をした人夫達からそれぞれ正式に被害届を提出するよう指示した。次いでUの話では、明朝七時半に西葛西の駅前でZと会うことになつているが、自分一人で大丈夫だということであつた。Bが、そのときに組の者がZにさらいをかけると言うと、Uは、西葛西には団地が沢山あつて、朝七時から八時にかけて駅前は通勤ラッシュになるから、やくざ者がごろごろ来るのは困ると言い、それでは土方の恰好をして近寄るから、人通りのない所にZを連れ出せと言うと、Uは、分かつた、野球のグランドの方に歩いて行くからそこで捕まえてくれと言い、更に、自分が何とか話をつけられると思うから、最初は自分に話をさせてくれ、一寸会長に代つてくれと言うので被告人と電話を交代した。被告人は、Uと話し合つた結果、Bらに対し、もう市川警察に訴えたことだし、Uがきちんと強い話をすると言つているから、Uにすべてを任かそうじやないかと結論を示した。Cは、それでも納まらない様子で、被告人にZの住居を執拗に尋ね、略図を書いて説明してもらつていた。

この間、Bは、桜台の組事務所に二回連絡を取り、被告人の方針を説明した(午前〇時三一分から一分二六秒間、午前〇時三五分から一分三七秒間通話)。

② 午前一時ころ、被告人、B、Cの三名は、一階のティールームに居たg、hを伴い、X、Yの両名が待機する飲食店「バイカル」に食事に行つた。

Bは、X、Yの両名に、警察が介入したので警察に任せて終りだ、UにZと話をさせる旨簡単に告げ、組事務所の反応が心配だつたので、念のためもう一度電話し、Aに対し、市川警察に任したから若い衆を押さえて動かないようにと連絡すると、Aはいろいろと不満の意を表したが、から電話をくれと言われている旨を告げた。そこで、Aは、に電話を入れ、夜中に走り回らして悪かつた、市川警察も入つたし、もう心配ないと詫びたが、は、本当にいいんだなと念を押しながら、釈然としない口調であつた。

③ Cは、B、X、Yの三名とhを自車に乗せて行き、桜台の組事務所でBら三名を降ろしたのち、hを滝野川まで送つて行つた。

④ 一方、Sは、同月一八日は市川の目黒総業の付近の自分のアパートに居たが、同日夕刻、Zらの第一回殴り込みのあつたのち、連絡を受けて目黒総業へ行つたところ、Zらが引き揚げた後だつたので、A方に赴き、Aの妻と話をしたのち、自宅に戻つていたが、翌一九日午前〇時過ぎに桜台から呼び出しを受け、午前一時過ぎに桜台に到着した。

Dは、Fから連絡を受け、同日午前〇時少し前に家を出たが、途中警察官の職務質問を受け、覚せい剤使用の容疑で本署まで任意同行されて採尿手続などをしていたため、桜台に到着したのは、同日午前一時過ぎだつた。

Aは、前記のとおり、同月一八日は山形県東根市に赴いていたが、同日午後八時か九時ころ、桜台に電話してZの殴り込みを知り、埼玉県浦和市在住のeの車で同人方まで引き返し、同所から自車で東京に向かい、同日午前一時過ぎ桜台に着いた。

Aは、Fにウイスキーを買いに行かせ、一同はウイスキーを飲みながら、交々気勢を上げていた。Fは、Aに対し、Bさんの方で話がついたそうですよと言つたが、Aは、やくざ者の喧嘩でそんなに早く話がつく訳ない、Hが喧嘩できないんだつたら俺達だけでやる、このまま黙つていたらやくざ者として俺達が飯食えなくなる、俺達でやろうなどと言い、iとZを同時にやつつけると、襲撃班を二組に分けてメンバー表を書いたりしたが、Dがiは関係ないと反対し、朝方Zを襲撃するというような話になつて行つた。

⑤ これより先、Nは、Bらの話し振りから被告人は東京に居るのではないかと疑い、に様子を確かめるよう指示していた。は、一九日午前〇時近く桜台に電話し、FにBは居るかと訊くと、被告人を捜しに行つているという返事だつたので、帰つたら自宅に電話するようにと伝言を頼んだ。やがてBから電話があつたが、音楽の聞こえるような場所から掛けている様子で(前記②参照)、会長はどこに居るんだというの質問に、東京には居ない、地方に行つていると答えたが、その口振りからは被告人が東京に居るのではないかと推察した。

そこで、は、再度桜台に架電し、Aに道順を教えてもらつて組事務所に赴き、Bの帰るのを待つた。

⑥ 一九日午前二時半ころ、Cの車で、B、X、Yが組事務所に帰つて来た(前記③参照)。

組事務所内の黒板には、「西葛西七時半」と書かれており、A、D、E、S、Fらは、明朝七時半に西葛西駅前でZを殺傷すると息巻いていた。Bは、その雰囲気から、Uに任かせるというようなことでは到底納まらないと考え、A達に、体かけるようなことじやないだろう、Zをさらつて来て話をつけた方がいいんだと説得した。

は、Bを組事務所の外に連れ出し、兄弟、それはないだろう、福島だの栃木だのと言つて会長は(東京に)居るんだろう、居るのに何で兄貴(N)の所に相談に来たりなんかするんだ、俺達はだしでも昆布でもないんだぞ、俺達兄弟分同士の間柄で隠しごとはないだろう、会長に会わせろとむきになつて怒つたので、Bは、分かつた、じや、一緒に行こうとプリンスホテルに向かつた。

車中で、Bは、Hはプリンスホテルに居るが居場所は言えなかつた、明朝七時半に西葛西駅前でZと待合せしているので、そのときZをさらうことにしたから、Nさんの方にはもう迷惑はかけないと説明してに謝まった。

⑦ プリンスホテルに到着し、Bがロビーから被告人の部屋に電話すると、被告人は、ロビーに降りて来てBに席を外させ、と面談した。が、居留守を使つたことで被告人を汚ないとなじり、Nの兄弟に電話してくれたかと詰問すると、被告人は、今福島から帰つて来た、BやCがNから用事がない限りもう電話するなと言われているということだつたので、まだ電話はしていないと弁解した。が、更に、NはHとZは兄弟分だからHが出て行けば話は絶対円く納まると言つている、何を逃げ隠れしているんだ、自分で出てちやんとやつた方が話は早いと迫ると、被告人は、分かつた分かつた、朝早くNの所に行つて話をすると言つて、を宥めた。は、言いたいことを言つて自宅に帰つたが、大事な時に長たるべきHが逃げ隠れしているようなことでは、Zと事を構える肚はないものと見極め、後刻、Nから何かあるといけないからフィリピン行きは見合わせようかと電話があつた際にも、何も起こらないから予定どおり出発するように勧告した。なお、は、被告人も体裁が悪いだろうと配慮して、都内のホテルに潜伏していたことについては、敢えてNに報告しないでおいた。

Bは、が怒つて帰つてしまうと、被告人に対し、みつともない、Nさんに謝つて下さいよ、居留守がばれてしまつたから、私がNさんに嘘をついたことになると迫つた。被告人は、がうるさいからな、分かつたよと答えた。

Bは、更に、被告人に対し、桜台の事務所の方も収まりがつかないとAが言つているし、若い衆は西葛西へ行くと言つている、これじやどうしようもないし、やNさんの手前もある、西葛西へ私もついて行つてZをさらいにかける、そうしなければどうなるか分からないから、明日西葛西へ行つて来ますよと提案し、被告人もそれは仕方がないということで承諾し、ここに、被告人とBとの間で、一九日午前七時半に西葛西駅前でZをさらうことについての合意が成立した。Bは、更に、さらつた後は、ZをBが借り受けてCに住ませていた埼玉県入間郡三芳町の一戸建の空家に拉致して監禁しておくと言い、被告人はこれを了承して、明朝Nの所へ寄つてから総長の所へ相談に行き、それから成増に行くから、そこを連絡場所にしようと言つた。成増というのは、東京都板橋区成増○丁目××番△号成増マンション四階にある住吉連合土支田一家須田三代目K(被害者のZとの混同を避けるため、以下「三代目」という。)の事務所のことである。

⑧ Bは、午前三時過ぎころ、桜台の組事務所に戻り、Aと板橋のガソリンスタンドに給油に出かけた。車の中で、Bは、Aに対し、再度、警察も入つているし、ここで動けば捕まるだけだから、Uに任した方がいいと説得したが、到底聞き入れる様子はなかつたので、更に、さらえばいいんだ、さらえば済むことだと強く念を押した。その後、両名は、池袋駅西口の喫茶店「ウエストロビー」に赴き、なおも協議を続けた。Aは、Bに対し、極東のq、i、j(前記一の4参照)らの氏名、住所、電話番号を控えたメモを示し、俺はZだけを考えているんじやない、極東のqだろうがiだろうが相手にするつもりで住所まで調べてあると豪語した。Bは、相手はHさんの兄弟だから、相手の事務所の扉一枚壊したつて、こちらが動いたという恰好だけつければいいんじやないか、Zをさらつて三芳町なら三芳町へ連れて行つて監禁し、iに体を預つているがどういうけじめをつけてくれるかという話を電話で持ち込んで、親分のi自身が詫びて来るという形を取れば、こちらの体面も立つし、喧嘩としても勝利じやないか、ことを荒立てて若い衆の体をかけさせてもしようがないなどと説得した、Aも、結局、ZをさらうだけにするというBの意見に従うこととなつたが、Zのことだから一人で来ないで若い衆を大勢連れて来るだろうと言い、車二台を使い、Cの車にC、S、F、Xを乗せてZをさらわせる、相手が大勢来た場合には、Aの車の者が応援に駆け込むという案を述べ、人数の割り振りをメモ書きしてBに示した。B自身は、ZがU工事部長と仕事の話をしに来るのに、若い衆を大勢連れて来るようなことはない、若い衆を連れて来て葛西の仕事の話をぶちこわしてしまうほど馬鹿ではなかろうという考えであつたが、Aが大勢で来るという意見に固執するので、Aが代貸としての立場で行動するのに口出しはしないこととした。

⑨ 一方、Cは、桜台でBらを下車させたのち、滝野川までhを送つて行つたが、h方付近の公園で、hに対し、市川の方でごたごたがあつて、俺も相手しに行かなければならない、やくざ同士のことだから、行けば、場合によつては何年か懲役に行くことになるかも知れない、店への送り迎えもしばらくできなくなるなどと話した。hは、お守り代りにとガスライターを差し出したので、Cは、自分の腕時計をhに渡した。両名は、プリンスホテルに泊りに行こうと車を走らせたが、途中、Cが桜台に電話すると、Aから、皆が集つているからすぐ組事務所に来いと言われたので、hを自宅まで送り、午前三時半過ぎに桜台に戻つた。このとき、B、Aの両名は、まだ池袋の喫茶店「ウエストロビー」から帰つていなかつた。

⑩ Cは、Dに、組事務所の近くのガソリンスタンドに行つている旨を告げて同所に赴き、駐車しておいた自車の中で待機していた。

まもなく、Aからの電話による指令に基づき、D、F、Xの三名が、組事務所にあつた柳刃庖丁三本を携え、Cの車に乗り込んだ。

B、Aの両名は、桜台に戻ると、組事務所内に残つていたE、S、YをAの車に同乗させて前記ガソリンスタンドに赴き、Cらの車と合流して、午前四時過ぎ、西葛西へ向けて出発した。

5  <Z拉致の失敗>

① 一行は、途中、Aの指示で市川市△×四丁目九番一六号の「バラキのおじいちやん」こと(被告人の妻Tの実姉の養父)方に立ち寄り、同所に避難していた被告人の妻Tから被告人所有の脇差一振(被告人が土支田一家六代目総長Pの形見としてもらい受けていた刃渡約四五・四センチメートルの登録刀剣。当庁昭和五九年押第四二六号の符号5)を受け取り、Cの車に積み込んだ。Cは、Aが自宅へ着替えに立ち寄つている間、目黒総業のVのアパートの付近で待つていたが、その際、自車に前記柳刃庖丁三本が積まれていることを知り、自分の体に巻いていた晒を外して、庖丁に巻くよう手渡した。

一行は、午前六時過ぎに東京都江戸川区西葛西六丁目一四番地所在の営団地下鉄東西線西葛西駅に到着したが、時間調整のため、人気のない土手のような場所に赴き、同所で全員下車してAの指示を受けた。Aは、Cの車とAの車に乗る人員を振り分け、庖丁や木刀を各人に手渡し、Cの車の方でZをさらう、相手が大勢来ていたらAの車がその中へ突つ込んで行く、抵抗されたらぶつ刺せなどと指示した。一同は、二台の車に分乗したが、その際、Sは、Aの指示に従わず、Aの車に乗り込んでしまつたので、Aの車に乗るよう指示されていたDと揉めごとが起こつた。Sは、どつちの車でさらつても同じだと譲らなかつたため、Dは止むなくCの車に乗車した。一行は、街道沿いの弁当屋で弁当を買い、朝食を摂つたが、その際、Aの車の助手席に乗つていたBは、車の窓を開け、さらいを担当するCの車に向かい、先刻のAの指示に関連して、絶対手を出すな、さらうだけにしろ、さらつたら三芳町に連れて行け、連絡場所は成増だと念を押した。

② 一方、Zは、同月一八日の第二回殴り込みののち、の運転する車で、午後一一時ころ、貞光建設の飯場に行つたが、目黒総業へ引き揚げる予定の人夫らがまだ泊つていたため、同所に宿泊できず、葛西駅付近の空地に駐車した車の中で仮眠した。

翌一九日午前六時三〇分ころ、両名は西葛西駅前に赴き、付近に駐車して、は待ち合せ場所のバス発着所の方を注視し、Zは助手席のリクライニングシートを倒して仮眠していた。

③ C及びAの車は、午前七時ころ、西葛西駅前を周回するうち、Cの車に居たFがの姿を発見したが、Zが居ないものと思つてその傍を通り過ぎてしまつた。後続のAの車は、助手席にZが寝ていることに気付いたが、直ちに前後を二台のトラックに挾まれて駐車しているの車の真横に停車すれば同車を包囲できたのに、Cの車に拉致を実行させようとしてそのまま通り過ぎ、CらにZが居たことを告げたため、引き返したときにはCらの車に気付いたの車は逸早く逃走しており、Z拉致計画は失敗に帰した。

Aの車に乗つていたEやSは、Aに「何やつてるんだ」と文句を言い、Cの車もAの車の傍に来て、CやDがAの失策に文句を言つたが、拉致に失敗した以上、Zの方から逆襲される虞があると、両車で三〇分位同駅周辺を探索したものの、の車は市川市役所に向うため、行徳橋付近に行つていたので、発見するに至らなかつた。

午前七時半ころ、Zとの約束に基づき、U工事部長が西葛西駅前に到着したが、B、Aらの姿を見て驚いた様子であつた。Bらは、Zらは逃げてしまつたと説明したが、Uがもう少し待つて見ると言うので、駅前に小一時間滞留したのち、現場へ行くというUと別れて、成増に向かつた。

④ 成増に向かう車中で、Sは、Aに対し、Zをさらいに行つたということで自分達が、動いたことを相手に知らせたことになるから、一応の恰好がついた、もうむきにならなくてもいいんじやないかとの意見を述べたが、Aから、うるさい、俺の言うことをきかないくせに余計な口出しをするなと一喝され、口論となり、Bに口添えを依頼した。Bは、分かつた、S、もう黙つていろとだけ答えた。

6  <成増エレベーター謀議>

① 同日午前九時半ころ、一行は、前記成増マンション(前記4の⑦参照)に到着した。

B、A、C、Dの四名は、下車して同マンション四階の三代目Kの事務所を訪れることにしたが、Dは、エレベーターに乗る前からAに対し、SがAのいうことを聞かずにAの車に乗つていたのだから、どつちの車でZをさらおうと同じことだ、どうして取り逃がしたのかなどとAの失態をなじつた。Aは、うるせえ、お前にいちいち言われることじやねえ、黙つていろと言い返したが、Dは、なおも、分りました、代貸さん、俺みたいなペーペーが口出すことじやないよねなどと嫌味を言つた。

その後、四階に向かうエレベーターの中で、Bが、「二一日頃Iさんの所でゆかせる話があるんだから、他所にやられたんじやあしかたがないな」と発言し、これを聞いた他の三人も、口々に「他にやられたんじやあ面子が立たない、Iさんの所でやるならうちでやる」という趣旨の発言をしてBに同調した。

② 三代目は不在であつたので、B、Aは、三代目の若い衆に断わつて、同事務所から、被告人が行つている筈の成増の三和町商事に電話したが被告人は来ておらず、市川の目黒総業に電話すると、被告人から桜台へ帰つているようにとの伝言があつた由であつた。Bが三代目にも電話したところ、三代目は俺の方で被告人と連絡を取つてみると言つた。

③ 四名は、三〇分位で三代目の事務所を辞去し、階下に降りると、Bが、一同に「解散だ」と言つた。Cは、脇差や庖丁を取り纒めて自車に積み、Xを同乗させて板橋区中台のd方に帰り、B、A、D、E、S、F、Yの七名は、Aの車とタクシー一台とに分乗し、同日午前一一時ころ、桜台の組事務所に帰つた。

7  <いわゆる「総長命令」>

① 被告人は、前示のとおり、プリンスホテルのロビーでBと協議したのち(前記4の⑦参照)、一〇三八号の自室に戻り、背広の上衣を脱いただけの姿でベッドに横臥して短時間の仮眠を取り、同日午前五時半ころ起床し、目を覚ましたgに対し、これから出かけるから、起きたらベルメゾン○○に帰つているようにと言い残して、ホテルの地下二階に預けておいた自車を運転して出発した。

② 被告人は、同日午前六時半ころ、戸田市○×の日照塾二階にあるN方に到着し、同人に対し、「今福島から帰つたけど、昨日は俺の若い衆に気を使つてもらつて悪かつたね」と謝意を表し、Zとの従来の経緯やZが市川に「乗つ込み」をかけてVをさらつたこと、警察が介入したが引き揚げたことなどを説明した。Nは、それじや旅行を取り止めて、俺がやつてやろうかと言つてくれたが、被告人は、今B達がZをさらいに行つているから兄弟は旅行に行つていいよと言い、さらつた後は総長の所へ話を持ち込み、iを呼んできつい条件をぶつけようと思つている旨説明した。

被告人は、N方で朝食を摂り、総長宅へ行こうと思つている矢先の午前八時ころ、Aの妻と思われる女性から、葛西でさらいに失敗したから、おやじさん(被告人)も気をつけて下さいとの電話が入つたので、ことの意外に驚き、Nへの説明もそこそこに、急拠総長宅に向かつた。

③ 被告人が板橋区徳丸の総長G方に到着したのは、同日午前八時半過ぎであつた。

被告人は、総長に対し、極東関口本家のiの分家であるZという者から昨夜市川の目黒総業に殴り込みをかけられ、Vがさらわれたこと、市川警察が介入したが、すぐ引き揚げたこと、今朝方、若い衆にZをさらいに行かせたが、失敗して逃げられたこと、相手はこちらが動いていることを知つているから、総長に何かあると困るので、知らせに来たこと、こうなつたらjでもkでもいいからさらつて来ようと思つていることなどを報告した。

Gは、Zは知らなかつたが、同じ板橋区に居住するiとは知り合いで、平素の交際もあつたことから、被告人に対し、iは喧嘩などできないから二、三日待て、必らず向うから回答がある、やるならそれからでもいいだろう、今は「団狩り」(暴力団取締月間)だから、下手に動くと皆ぱくられるぞと指示した。

被告人が「分かりました。すぐ若い衆に電話しますので失礼します」と辞去しようとすると、Gは、「二〇日は出ろ」と翌日に予定されている住吉連合の幸平一家から土支田一家への当番の引き継ぎに出席するよう、被告人に命じた。

④ 同日(一九日)午前九時ころ、総長宅を辞去した被告人は、付近の公衆電話から成増の三代目の事務所に連絡したが、Bらからの連絡は入つていないとのことであつたので、連絡があつたらすぐ桜台の組事務所に戻るように言つておいてくれと伝言を依頼した。

被告人は、Zに対して行動を起こして失敗した直後であるから、身を隠さないと危いと思い、平素義理場に行くとき使用したり、Zを乗せたこともあり、登録番号も覚え易い「一六番」である自車のベンツを豊島区東池袋○丁目×番△号SYビル五〇二号株式会社美光代表取締役方に預け、極東の者に知られていないベルメゾン○○のg方に隠れようと考え、池袋に向かつたが、交通渋滞のため、午前一一時ころになつてしまつたので、途中の公衆電話から桜台の組事務所に架電したところ、話し中で連絡が取れず、止むなく目黒総業に電話し、貞光建設から帰つて来ていたU工事部長に対し、桜台に電話したけど通じないから、俺も後で電話するけれども、お前から先に組事務所の方に連絡してくれ、総長から言われて二、三日様子を見るから、帰す者は帰して、事務所から出ないで動かずに待つていろと伝えてくれと依頼した。

⑤ Uは、被告人からの電話が切れるとすぐ桜台の組事務所に電話したが、応対に出たAが憤激して、そんなこと今更言われたつて、みんなを押える訳には行かないし、どう仕様もないじやないかと強い口調で食つてかかつたので、そんなこと言つたつて俺は会長(被告人)に言われたとおり言つてるんだ、後から会長が電話するというんだから一応伝えておくと怒つて電話を切つた。

⑥ 被告人は、ベルメゾン○○に行くと、gがプリンスホテルから帰つており、食事をしていないと言うので、同女を連れて前記株式会社美光に赴き、社長に、クラウン警備保障株式会社振出、額面一一〇万円の小切手を同人の当座に振り込んでおくことを依頼したのち、同人をも誘い、三人で同社の近くにある豊島区東池袋○丁目×番△号岩下ビル地下一階スナック「立葵」に赴いた。

同店から、被告人は、まず、成増の三代目の事務所に電話したところ、三代目は、Iの兄弟が心配して来ていると言い、Iと代つた。同人は、iのところの話なら俺に任せろ、jの野郎が裏で絵を描いているんだから、あんなものひとうなりだと言つたが、被告人は、俺も総長にjをさらうと言つたんだが、総長に二一日まで待てと言われているので仕方がない、引き揚げてくれと言つてIを納得させた。

被告人は、次に、桜台の組事務所に電話し、Bを出すように言つた。Bは、最初に、Zのさらいに失敗したことを報告したが、被告人は、それは聞いた、朝一番でNのところへ行つて謝つて来た、それから徳丸へ行つて来た、総長に、今(暴力団取締)月間だし、iのところじや喧嘩になんかなりはしない、そのうち何とか言つて来るだろうから二、三日相手の出方を見て、相手にせず放つぽつておくように言われたから、放つておくように若い衆に言つておけと話した。Bは、それでいいんですか、若い衆の押さえがきかないですよとなかなか納得しなかつたが、被告人は、これは総長命令だから仕様がないだろう、Iの兄弟も心配して来てくれたが、総長が二一日まで待てと言つていると話して帰らせた、お前から若い衆みんなによく言つて、帰る者は帰し、寝る者は寝させろと指示し、B自身にも帰つて寝るようにと言つた。

被告人は、更に、Oの自宅に電話し、昨夜来の経緯を説明し、さきに依頼してあつた(前記4の①参照)待機を解くように言い、総長から「待つた」がかかつたので、しばらく身体を隠すと告げた。Oは、心配して、うちの若い衆を付けようかとか、こつちへ来てはどうかなどと勧めたが、被告人は、俺の身体の一つや二つ隠すところはあると謝絶した。

被告人は、連絡を終ると、スナック「立葵」を出て、社長にベンツを預つてくれるよう依頼し、同社長が、近くのガソリンスタンドに話してみると言うと、それじゃ奥の方に入れ、車のナンバーが見えないようにしておいてくれと念を押した。

⑦ 被告人は、gとベルメゾン○○に戻つたが、元ホワイトレディース・クラブのホステスであつた①(コーヒースナック「虎」外一店経営)とデートの約束がしてあつたことを思い出し、プリンスホテルに部屋を取つて同女を呼び出し、午後二時ころから八時ころまで同女と過ごして、ベルメゾン○○のgの部屋に帰つた。

⑧ 一方、桜台の組事務所では、Bが、被告人の電話による指示を受け、すぐ傍に居たA、F、E、Y、Sらに対し、総長に相談に行つたら、暴力団取締月間だし、iのところでは喧嘩にならない、相手が何を言つて来ても二、三日放つぽつておいて相手にするな、二、三日様子を見れば話が来るだろうから、あとは話し合いだと言われた旨、被告人の言葉を伝えた。

Aは、これに対し、おやじ(被告人)は何を考えているんだ、おやじは堅気になつても会社があるからいいけど、俺はこれからやくざを続けて行くのに面子が立たない、このまま放つぽつておくんじや笑われちやうよと不服を唱えた。Bは、これはHだけの話じやなくて徳丸(総長)の方からも出ているんだ、A、もう頭冷やして帰つて寝ろ、俺も帰つて寝るから、あとはDにも伝えておいてくれと言つて、自分の若い衆のYを連れて所沢市の自宅へ帰つてしまつた。

Dは、成増から桜台に帰つたのち、一人で付近のパチンコ遊戯場で時間を潰すなどしていたが、組事務所に戻つた機会に二、三日待てという話になつたことを聞き、午後三時半ころ桜台を出て西池袋の自宅に帰つた。

桜台の組事務所には、A、E、F、Sの四名が残つた。

⑨ Bは、所沢の自宅に帰つたのち、午後一時過ぎころ、d方に架電し、Cに対し、総長命令で中止だ、話し合いになるから相手にせず放つぽつておけと伝えると、Cは、土支田は仕様がないな、喧嘩もできないのかと不平を言つたが、Bは、重ねて、総長が言つてるんだし、言うこと聞いた方がいいぞ、突つ走るなよ、あとは心配しないで休めと言つてCを説得し、Xが起きたらもう終りだからうちに帰るように伝えてくれと依頼した。

Cは、dに対し、電話の内容を説明し、土支田一家は号令をかけておきながら中止じやみつともないな、総長が何と言つたつてZは絶対に許す訳には行かない、俺は一人でもZをやるよなどと言つたが、dが、そんなこと言つてもC′さん(C)一人じやできないでしよと言うと、それはそうだなと返事した。

午後六時ころ、Xが目を覚まし、Bに電話して所沢に帰ることにした。Cは、その電話を代つて、Bに対し、Zのところに電話してみたけれど出なかつたと報告した。Bは、Zなんか居やしないよ、自分の身の安全を守るのに心配だとすれば、iのところだけだと言うと、Cは、じや、あとで見て来てみると答えた。

Cは、成増マンションで別れる際にAからもZの様子を見てくれと言われていたので、同日午後八時過ぎころ、自車でZ方の付近まで行つてみたが、同人方は電燈が消えていて人の気配がなかつたので、d方に戻つて、その旨を桜台のAに電話で報告した。

⑩ Bは、d方から同日午後七時ころ帰つて来たXを相手に自宅で酒を飲んでいたが、実測商事のという知人から電話があり、朝霞市のパブスナック「青山」(経営)で飲んでいるからと誘われて、午後一〇時ころ、同店へ出かけたが、その際、Cに電話して「青山」に行くことを連絡したところ、Cが、Z方を見て来たが電気が消えて真暗だつたと報告したので、何だ、わざわざ行つて来たのか、相手にするな、放つぽつて寝ろよと言うと、Cは、本当にいいんなら、しばらく女ともぐつて消えちやいますよと返事した。

Bは、Xと「青山」に飲みに行き、同店にしばらく居たのち、前記の案内で板橋駅前のスナックに赴き、翌二〇日午前四時ころまで痛飲し、午前五時ころ帰宅して寝てしまつた。

8  <ベルメゾンにおける被告人の発言>

① 被告人は、同月一九日午後八時ころベルメゾン○○のgの部屋に帰ると、食事をして寝てしまつた。

被告人が、翌二〇日午前〇時ころ、小用のため起き出すと、gの友人である「みるくちやん」こと(昭和三六年一二月二六日生)が遊びに来ていた。は、gが以前に「龍子」の名で出ていた池袋のキャバレー「○○」のホステスで、極東関口本家徳原会中島興業のの情婦であり、当夜は、同店のホステス「エリー」から、同女がかねて龍子から借りていた服を代りに返しに行くよう頼まれ、初めてベルメゾン○○を訪れたものである。

被告人は、用を済ますと、ダイニングキチンの中央にある炬燵に坐り、三人でビールを飲んでいた。

② Cは、同月一九日午後九時ころ「○○」のhに電話し、今夜は迎えに行けないので、隣りのホワイトレディース・クラブのdと待ち合せて同女方に来るよう連絡した。hは、翌二〇日午前〇時ころ「ペントハウス」という店でdを待ち合せ、タクシーに相乗りしたが、dには同僚や客の連れがあり、上板橋で下車して飲みに行つてしまつたので、h一人で午前〇時半ころd方に着いた。

C、hは、dの母を交えて雑談したのち、午前一時ころ、Cの車でd方を出たが、途中でgのところへ寄つて行くことになり、午前一時半近くにベルメゾン○○に到着した。

③ Cは、かねてgに対し、糠味噌を作つてやる約束をしていたので、hとともに、付近の豊島区×○△○丁目△番×号地産ストア池袋店(午前二時閉店)に行つて、材料の糠、パン、塩、唐辛子やポリバケツなどを購入して来て、糠味噌を作つた。

糠味噌を作つたのと前後関係は必ずしも定かでないが、被告人とCとの間で、次のような話が交された。Cが、来るとき奴(Z)のところを通つたら電気が消えていたので、まだ帰つていない、あの野郎どうするんですかなどと言つたのに対し、被告人が、何だ、お前、Bから中止命令を聞いていないのかと言うと、Cは、聞いています、あの野郎俺は絶対勘弁しないですよと答えた。被告人は、総長から二、三日待てと言われているから、お前らが身体を賭けるようなことはするな、ましてお前は朝霞のこと(朝霞警察署から指名手配中であること)もあるから、うろちよろするなと制したが、Cは不服そうな顔で、あの野郎は絶対許さんなどと独言を言つていた。被告人は、Zとはいつかは話をつけなければならない、山かどこかへ連れて行つて、ぶつちめて、首から上だけ出して埋めてしまい、頭から小便でもぶつかければいいというような話をしたので、これを聞きつけたgが、「それじや、まるでふぐの毒消しみたい」と言い、一同大笑した。

④ 同日午前三時近く、被告人が、Cらに対し、明日の二〇日会に出るから俺も眠らなくちやならないので早く帰れと言うと、Cは、兄貴大丈夫ですか、車に長い物積んでるから置いて行きましようかと訊いた。被告人は、そんな物は要らない、そんな物持つて歩くとぱくられるぞ、一斉でもあつたらどうするんだと断わつた。

Cは、女二人を自車に乗せ、を上板橋三丁目、hを滝野川の自宅までそれぞれ送つて行つたのち、同日午前四時ころ、d方に帰つて就寝した。

9  <上板橋駅集結及び決行>

① 前示のとおり(前記7の⑧参照)、同月一九日、スナック「立葵」からのHの電話により、総長の意向が伝えられてからは、B、Y、Dらが帰宅し、桜台の組事務所には、A、E、F、Sの四名だけが残つていた。

同日夕刻、Fがガソリンスタンドに車を取りに行き、Sが別室で寝ているときに、Aは、Eに対し、このままじや恰好がつかないから何とかしなきやならないと愚痴を言つた。これに対し、Eが、当り前だと同意して、事務所に二回も殴り込みに来られて、代貸が黙つてたんじやおまんま食えねえぞ、何らかの形取らなきやなんねえんだけれどどうするんだ、このまま二、三日様子を見るつて指くわえて見ているのかと煽ると、Aはいやあ困つた、困つたと言うのみで具体策を示さなかつた。Eは、更に、喧嘩するには道具が要るし、金も要る、紙(手形、小切手)でもいいから二〇〇ほど都合つくかと訊くと、道具も金もないという返事だつたので、何だ、それじや喧嘩できねえんじやねえか、だからと言つてこのまま指くわえている訳に行かねえだろう、会長が二回も襲われそうになつたのに代貸が何もできねえじや恰好つかねえぞと、何らかの方策を講じるよう重ねてAに迫つた。

Eは、Aがこれといつた具体策を示さないので、自分の伯父貴分に当るという者がiの分家を名乗つていると兄弟分であることを利用して、表面に出ないままから話を持つて行き、Zが詫びを入れて来る形を作ることを考え、Aに、Fと車を貸してくれと頼んだが断わられ、勝手にしろと不貞寝してしまつた。

同日午後九時ころ、Zから電話があり、おやじ(被告人)と話がしたいけど連絡取れないかと言つて来たが、応待に出たEは、かねてAから電話が来ても放つぽつとけと指示されていたので、(被告人は)福島の方へ義理に行つて連絡取れないと言い、Zが更に、Aでもいいから話をしたい、連絡取れないかと言つたのに対しても、相手にしなかつた。

Eは、Zから連絡が欲しいという電話があつたとAに伝えた際、同人がそんなのは放つとけばいいと答えたことや、同人からCがZを捜しに行つていると聞かされたことから、Aには本気で落し前をつける意思があるものと見直し、改めて同人を煽動しにかかり、落し前つけるんだつたらZ本人をやつたつて駄目だ、さらつて来てiに話するのが筋だ、iで話が分からねえようだつたら、iもさらつて来てq(関口会会長)の方に話を持つて行くのが筋だ、それでも話つかねえんだつたらやるしかねえぞ、qの玉取る(殺害する)だけの根性あるのかと畳みかけると、Aは、いやあと考え込んだ。

Eは、Zもこれは極東と住吉の喧嘩だと電話で広言していたという話を聞いているのに、Aには極東全部を相手に喧嘩する肚はないものと思い、なおも同人に対し、これはHさん個人の喧嘩じやない、(住吉連合の)看板割られたことの晴らしなんだから、住吉と極東の本当の喧嘩ができるのか、それだけ肚くくつて行けるのか、この野郎、道具もねえ、ゼニもねえで、ろくすつぽ喧嘩もできねえのに、菜つ葉の肥やしじやあるめえし、掛け声ばつかりだなどと、非難するような口調をも交じえながら、午後一二時ころ就寝するまでの間、断続的に煽り続け、これに対し、Aも、俺達で何とかやらなきや、よその人間にやられたんじや、俺あメシ食えねえからななどと応じていた。

② 翌二〇日午前六時ころ、Eは、AからZ方の電話番号を聞き、架電したところ、Zの在宅が判明した。

Aは、Zが居たから起きろと、FとSを起こし、今から常盤台へ落し前つけに行くと言つた。

ところが、Sは、Zから電話があつたということは謝つて話を収めたいんじやないか、もうZをやる必要はない、何でそこまでやらなきやいかんのか、おやじ(被告人)のために命賭けても、おやじが面倒見てくれる訳じやないだろう、残された人間(家族)のことはどうなるんだ、俺は行かないと、Aの命令に反抗した。Aは、Zの電話はそんな電話じやない、俺はおやじのために行くんじやねえんだ、男の意地で行くんだ、おやじは(堅気の)仕事があるからいいけれども、俺は仕事がねえんだ、だからこのままじや面子が立たねえんだ、行かねえ者は行かなくてもいいと言つた。このやり取りの間に、ここで止められたら男を上げる機会がなくなると思つたFは、Sに対し、俺がやるんだよと口を挿んだ。

Aは、午前七時ころ、d方のCに電話し、「上板」(上板橋)の駅へ来てくれと連絡したのち、Dにも電話し、桜台の組事務所にすぐ来いと言つたが、Dが「上板」に直行する方が早いと言つたので、駅前でCと合流するように言い、再度Cに電話して、「上板」でDを拾うよう指示した。Aは、更に、所沢のBにも二回ほど電話を入れたが、前示のように(前記7の⑩参照)、徹夜で大酒していたBが起きられなかつたため、同人と連絡を取ることを断念した。

③ Cは、自車を運転して、同日午前七時半ころ、板橋区上板橋二丁目三六番地東武東上線上板橋駅前に到着し、午前八時過ぎにDがやつて来てCと落ち合つた。まもなく、Aの車で、A、E、Fが到着した。

Cは、Aに対し、総長の意向で中止だということをBから聞いていると言うと、Aは、それでは自分の代貸としての立場がないからZを襲うという意味のことを言い、CもAの立場を了解した。Aが、Bに電話かけたが出なかつたと言うと、Cは、それを言うなよと言つた。

Cは、E、Fをも自車に同乗させ、Aに対し、Cの車の後について来て、Z方の近くから電話をかけ、Zが居るか居ないか教えてくれと言つて、先に立つて出発した。

④ Z方に向かうCの車の中では、西葛西に行くときから積んであつた柳刃庖丁を、D、E、Fが各自一本ずつ取つた。前示脇差については、一時、Eが持とうとしてCと取り合いのようになつたが、結局Cが持つことになつた。Dは、その様子を見て、相手が大勢居るかも知れないところへ乗り込むからには、自分も相討ちで死ぬ覚悟が要るのに、長いどすを取り合うのは自分が助かりたい気持があるからだと思い、「Zは俺が取る(殺害する)」と言つた。Cは、狙いはZ一本だ、エンジンはかけつ放しにしておく、(車の)ドアは開けつ放しにして行けなどと言い、Dは、やつた後現場に道具を置きつ放しにするとみつともないから、必らず持つて帰れと注意した。

⑤ 一行は、午前八時三〇分ころ、板橋区○○三丁目一〇番八号第二△△荘の付近に到着した。

Cの車は、方向転換したうえ、第二△△荘東側路上に停車して待機した。Aは、付近の公衆電話からZ方に架電すると、Zが出て応対したので、「事務所へ電話くれたらしいが何か用事あるの」と訊くと、おやじ(被告人)に連絡取れないかと言つたので、自分は地方から帰つて来たばかりで分からないと答えて電話を切り、Cの車に対向して接近しながら前照燈を点滅させて、Zが在室している旨の合図をし、Cの車と擦れ違つた際、Cから柳刃庖丁一本を手渡されたが、Z方襲撃には加わらず、自車を運転して現場から離脱した。D、F、E、やや遅れてCは、各自車中で分配した兇器を携えて下車し、Zの部屋に向かつた。

三犯行の概要及び犯行後の状況

1  Z、rの殺害

第二△△荘は、木造モルタル塗り瓦葺二階建ての共同住宅で、二Kの居宅が各階に五戸ずつあり、Zの居住する一〇六号室は、一階の北端に位置している。東側はベランダで、Cらが車を停めた幅員五・六メートルの道路に面しており、その道路を距てた東側にはiの居宅がある。玄関は、右道路から一〇六号室の北側にある小路を通つて入つて行つた西側にある。

E、D、Fは、西側の玄関に回り、チャイムを鳴らしたが、誰何されるのみでドアを開ける気配がなかつたので、D、Fが東側のベランダの方に廻り、Fが施錠されていない東側ベランダのガラス引戸を開け、Cが施錠されていない北側のガラス窓を開けて、それぞれ室内に押し入つた。Eは、西側玄関前で柳刃庖丁を持つてZらが脱出して来るのに備え、対向車があつて運転席のドアを開けられず、下車に手間取つて遅れて来たCは、北側の小路から東側道路への出口付近で脇差しを持ち、一〇六号室からの脱出者とi方からの加勢に備えていた。

一〇六号室には、Z、r及びの三名が居たが、Dは、玄関の方へ逃げようと後ずさりするZに襲いかかり、所携の柳刃庖丁でその胸部、腹部などを数十回に亘り、突き刺し、あるいは切りつけるなどし、そのころ同人を原判示傷害により失血死させて殺害し、Cは、所携の柳刃庖丁でZを突き刺したほか、棒のような物で抵抗したrに対し、その胸部等を数回に亘り突き刺し、あるいは切りつけるなどし、そのころ同人を原判示傷害により失血死させて殺害した。

は、Bらの兇行に驚愕してベランダ側のガラス引戸から表に逃げ出したが、道路への出口を脇差を持つたCが封鎖しているのを認めて、再び室内へ取つて返した。

Dは、Zが絶命するや、「取つた」と怒号し、ベランダの方へ戻ろうとすると、が「済みません」と謝りながらおろおろしていたので、その頬の辺りに手加減しながら一回切りつけ、表へ出た。Fも、の右肩背部を一回刺してから表へ出た。Eも、Dが「取つた」と言うのを聞いて、道路の方へ戻つて来た。

Cは、D、F、Eを自車に収容して発進した。

2  犯行後の状況

① Cは、上板橋駅前でAと話し合つた際に打ち合せておいたとおり、成増の三代目の事務所(前記二の4の⑦参照)に行くこととし、同日午前九時ころ、同事務所の東隣りの板橋区成増○丁目△△番○号ジョイ駐車場に自車を停め、一人で同事務所に上つて行くと、同所で寝ていた三代目の代貸を起こして、今Zのところへ行つてやつて来た、階下の車のところに来ている、体をかわしたいので三代目に連絡して下さいと言つた。

は、三代目に電話をかけ、Cに話をさせたが、Cが興奮していたため、三代目は事情がよく呑み込めず、と電話を代らせた。は、皆下に来ています、様子を聞いてまた連絡しますと言つて電話を切り、Cとエレベーターで階下に降りて行つた。エレベーターを降りたところで遅れて来たAと出会つたが、Aは、Zをやつて来たとに告げた。駐車場に行くと、手に血のついたDとFが居り、DがZほか一名を刺して来たと話したので、は、この連中をここに置いておくのはまずいと考え、取り敢えず自宅に連れて行こうと思い、三代目に報告することも忘れて、同駐車場に駐めてあつた自車にD、F、Eを同乗させて先導し、Cを同乗させたAの車に跡を追わせた。

②  は、途中で、自分の妻は妊娠中であるし、極東の連中が自宅を知つているので危険だと思い直し、保谷市ひばりが丘のIの事務所に立寄つて三代目や被告人の指示を仰ごうとしたが、事務所の所在が分からず困つていると、Aが、所沢へ行く道を教えてくれれば所沢へ行くと言い出し、途中からの車に代つて先導し、埼玉県所沢市○○町二七七番地の一「でぶ姐さん」こと方に向かい、午前一〇時ころ、同所に到着した。

③ Aは、方からBに電話して、殴り込みをかけてZを殺害したから、被告人に何かあると困るので傍についていてくれと連絡した。

Bは、同日午前一一時ころ、X、Yを連れてAに教えられたベルメゾン○○を捜し当て、パジャマ姿で出て来た被告人に対し、若い衆らがZをやつちやつたらしい、すぐ着替えて電話のあるところへ行つて、土支田の総長や皆に連絡しなければ大変なことになりますよと報告した。そこで、被告人及びBら三名は、同日午後〇時五八分から午後五時一四分までの間、「福田一夫」名義で前記プリンスホテル二七〇五号室に宿を取り、G総長らとの連絡に当たつた。

④ 一方、総長G方には、土支田一家からの連絡が入るよりも先に警察官が赴いており、同総長に、犯人の身柄をそつくり引き渡すこと、相互にこれ以上抗争行為に出ないことを約させていた。

は、方から三代目に電話すると、「手前どこに行つてるんだ、この馬鹿野郎。総長から電話は来るし、大変なことになつているんだ」などと叱責され、三代目に方の場所と電話番号を知らせ、その指示を待つこととした。

テレビ放送では、Zとrが死亡し、が傷害を負つたことを報道しており、犯人は三人とか四人とか推定していた。

正午ころ、三代目が方に到着し、Aら五名から事情を聴き、総長がやつた者は早く出頭させろという意向であることを伝えた。五名は、相談のうえ、テレビでも犯人は三人と言つていること、C、D、Fはに顔を見られているが、A、Eは見られていないこと、Aは現場に突つ込んでいないし、子供が生まれたばかりであり、Eは前刑で出所してから一か月しか経つていないことなどから、差し当たりC、D、Fの三名が出頭することに決めた。

そのうち、被告人から電話が入つたので、三代目は、被告人に対し、総長も出頭させろと言つているから仕方ないだろうと言い、C、D、Fらに被告人と話をさせた。被告人は、三名に対し、やつちまつたことは仕方ないだろう、やつたことについては責任をすぱつと取れという趣旨のことを言つた。三代目は、電話を代つて、Hに対し、出頭する段取りは私に任かせておけと言つた。

三代目は、Dに対しては、同日午後〇時半ころ方に到着した内妻のfと暫らく別室で過ごさせておいたが、Cが、出頭するまで二、三日余裕をもらいたいと懇願したので、総長宅まで出向いて指示を仰いだところ、総長は「駄目だ、すぐ出ろ」との意向であつた。そこで、三代目は、その旨を全員に伝え、に用意させて一同に別れの酒を酌み交させたのち、出頭する三名を自車に乗り込ませ、の運転で、自分は助手席に付き添つて方を出発し、同日午後四時ころ総長宅に到着して、三名の身柄を引き渡した。三名は、同日午後九時警視庁板橋警察署において逮捕状を執行された。

⑤ その後、住吉連合と極東関口一家との間で、被告人において死亡したZ、rに対し各三〇〇万円、負傷したに対し一〇〇万円の合計七〇〇万円を提供することで話し合いが纒まり、同月二八日ころ、池袋の地球飯店において、住吉連合からG、、、、関口一家からi、、、zが出席して手打ちが行われた。

第四共謀共同正犯の成否

一序説

原審訴訟記録及び証拠物によつて認められる本件の客観的事実関係は、以上のとおりである。

さきに述べたとおり、本件においては、外形に現われた関係者の言動もさることながら、これらの個々の言動をなすに際しての関係者の心情、意図、これに対する相手方の理解、判断、感応等の主観的側面の認定、解釈、評価が、決定的とも言える程度の重要性を有し、最大の争点となつているのである(前記第二参照)。

そこで、前節における事実認定においては、できる限り、右の主観的側面に関する認定、解釈ないし評価を排除し、もつぱら客観的、外形的に認められる関係者の言動を把握し、判断の基礎とする方針を採用した。

かくして認定された一連の事実関係を通観して言えることは、被害者であるZらによる目黒総業への殴り込みという異常な事態に直面した被告人の対応の仕方がまことに不適切であつたということであり、組織の頂点に立つ被告人において、自らことに当たる気慨を失わず、迅速的確に配下らを指揮していたとすれば、本件のような兇行は回避し得たであろうという意味において、被告人の不適切な対応が本件の結果発生の一因をなしているものということができる。

しかし、いうまでもないことながら、そのことと、被告人に対し被告人の配下らによるZ及びrの殺害についての共謀共同正犯としての刑責を問い得るかということは、全く次元を異にする問題である。

そこで、原判決が本件の事実関係をどのように把握し、どのような根拠に基づいて被告人に共謀共同正犯としての刑責を肯認するに至つたものであるか、また、その認定及び判断は相当であるかについて、次項以下で検討することとする。

なお、以下の叙述において、証拠を引用する際には、検察官に対する供述調書は「(検)」と、司法警察員に対する供述調書は「(員)」と、それぞれ略記し(なお「謄本」の表示も省略する。)、作成日付については(昭和)年月日の順にアラビヤ数字を列記し、記録中における証拠書類の所在個所を表示するには、記録の冊数と、三三七丁の枝丁数のみを掲記することとする。

二原判決における「共謀」の構成

さきにも引用したとおり(前記第二参照)、原判決は、被告人が、配下の者に対し、「直接、Z殺害をあからさまに指示した」というような事実は証拠上認められないとしながらも、「各証拠を総合して認められる本件に至る経緯、特にその間における被告人及び輩下組員らの言動」に照らすと、

(1)  被告人は、事の成行き上、配下組員らが、殴り込みに対する報復として、Zを殺害し、その目的達成のため必要とあればZの警護者らをも殺傷する事態となることを充分に予測しつつ、これを容認していたこと、

(2)  被告人は、直接に接触していたB及びCに対しては、右(1)のような心境をそれとなく示していたこと、

(3)  右(2)により、被告人の意のあるところを察知し、その意向を実現することを決意したB及びその指揮下にあつたA以下の実行グループの者が順次共謀を遂げたこと、

(4)  右共謀に基づき、A以下の実行グループの者が本件犯行に及んだことを認定するに足りるから、被告人が本件につき共謀共同正犯としての刑責を負うべきことは明らかであると判示している。右のうち、(1)は、共謀以前の被告人の内的心理状態、(4)は、共謀成立後における実行行為であるから、関係者間における共謀行為と目されるのは、結局右(2)と(3)の二点である。

原判決は、右(1)ないし(4)のような判断の根拠とした「本件に至る経緯、特にその間における被告人及び輩下組員らの言動」については、「認定事実」二の「本件に至る経緯」と題する項(以下<経緯>という。)においてこれを認定し、右認定事実に基づく判断については、「弁護人の主張に対する判断――殺意及び共謀の存否」と題する項(以下<判断>という。)においてこれを説示している。しかし、右<経緯>の中にも、認定事実に対する評価ないし判断がかなり織り込まれている一方、右<判断>中にも、判断の根拠となる事実の認定がかなり付加されているから、事実認定とこれに対する判断との区別に拘泥することなく、両者を一体的に観察して、事項ごとに検討するのが相当である。

ところで、原判決も認めているように、簡単な電話連絡などを除けば、被告人と直接接触のあつた本件関係者(B、C、Eのように、H組に属していない者も含まれるから、原判示のように「輩下組員」というのは措辞適切を欠く。以下、これらの者を含め、「組員ら」という。)は、B、Cの両名のみである。従つて、本件犯行につき、被告人を含む共同謀議があつたとすれば、それは、少くとも(イ)被告人とB、C(その両名又はそのうちの一名。(ロ)においても同じ。)との間の謀議及び(ロ)B、CとA以下の者との間の謀議の二段階あるいはそれ以上の段階に分かれた順次共謀の形態を取る以外にない。この場合において、各段階に分かれた謀議を併せて全体として一個の共同謀議が成立するためには、当然のことながら、各段階における謀議内容の間に同一性、連続性が保たれていることが必要である。

原判決は、被告人は、最初に殴り込みを知つた時点で既に「次第によつてはZ殺害に至ることをも含む報復を考えていた」ものであり(<判断>一参照)、Cは、ベルメゾン○○×××号室に呼び出されて被告人と対話するうち、「被告人は、Zに対する報復として、その殺傷を企図しているものと判断し、次第によつては、被告人の意を受けて、Zを殺害しようとの決意を固め」ており(<経緯>3参照)、Bも、喫茶店「ラタン」でCから事情を聞き、組事務所でE、Fらの興奮状態を見て、「これではZを殺害しないかぎり組員はおさまらないと考えるに至つた」ものである(同右)としたうえ、プリンスホテルにおける二回目の会談(前記第三の二の4の⑦参照)において、被告人とBとの間に、「これまでの経緯から、Zの周囲にはその輩下等が警護のため参集していることも予想され、拉致を試みるときはこれらの者とも衝突することとなり、Zの殺害はもとより警護の者らの殺傷に至る可能性も少くなくないことを十分認識しながら、この際それもやむをえない」とする「Z及びこれを警護する者らに対する未必的殺意を伴つた拉致の共謀」が成立し(前記(イ)の謀議に相当する。)Bが「組事務所に引き返し、それでは手ぬるいとする組員らを説得して、まずは拉致を試みることに渋渋ながら同意させ、Aと手順を打ち合わせるなどし」たことにより、BとA以下の組員らとの間にも、「前記のような未必的殺意を伴う拉致の共謀」が順次成立した(前記(ロ)の謀議に相当する。)と認定している(<経緯>4参照)。

ところで、右拉致計画の実行は失敗に帰している(<経緯>5参照)。

原判決は、そこで、拉致失敗に伴う状勢の変化を踏まえたBが、「この上は、被告人の意向を受けて、Zの殺害及び場合によつてはその警護の者らの殺傷を実行することもやむを得ないものと決意し」、成増マンションのエレベーター内で、A、C、Dに対し、「二一日からIさんのところで動くことになつている、よそにやられたらみつともない、うちでやるより仕方ない」旨発言し、既に同様の気構えであつた右三名の了承を得て、四名間の共謀を「Zの殺害及び場合によりその警護の者らの殺傷の実行という内容に絞」るに至つたもの(前記(ロ)の謀議の一部に相当する。)と判示し(<経緯>6参照)、更に一〇月二〇日早朝、第二△△荘一〇六号室にZが在室していることを知つたDが「前記成増エレベーター謀議に従い、被告人の意思を実現し、H組の面目を保つため、この機会を逃さずZを襲つて殺害すべく、もし妨害する警護者がある場合にはこれを殺傷することもやむをえないと決意し」組事務所から同行したE、F及び電話で招集したC、Aらと上板橋駅前に集結し、車二台に分乗して第二△△荘に向かううち、「Zの殺害及びこれを妨害する警護者の殺傷を決行することとなつた」もの(前記(ロ)の謀議の一部に相当する。)と認定している(<経緯>9参照)。

三問題の所在

右に見たように、本件は順次共謀の成否が問題となる事実であるところ、原判決の認定するところによつても、(イ)被告人の関与している謀議は、プリンスホテルにおける被告人とBとの間の謀議の一回だけであり、(ロ)被告人以外の者による謀議は、①プリンスホテルから帰つたBと組事務所に居たA以下の者との間の謀議、②成増エレベーター内におけるB、A、C、D間の謀議、③上板橋集結の前後におけるA、C、D、E、F間の謀議の三回である。

そこで、被告人、B及びA以下の実行グループを含む七名全員の共同謀議が成立したといい得るためには、右の(イ)の謀議と(ロ)の①ないし③の謀議とが内容的に同一性、連続性を有し、全体として一個の共謀とみなし得ることが必要である。

右のうち、右(イ)の謀議と右(ロ)の①の謀議との間には、被告人及びBとAとでは状勢認識にかなりの差異があるとはいえ、右同一性、連続性を肯認することは比較的容易である。しかし、かくして成立したZ拉致の共同謀議は、その実行の段階で失敗に帰しており、右実行の企図が何らかの刑罰法規に触れることがあるとしても、これについては何らの訴追もなされていないのである。

これに対し、右(イ)の謀議と右(ロ)の②の謀議との間には、前記拉致の失敗が介在し、また、右(ロ)の②の謀議と右(ロ)の③の謀議との間には、いわゆる「総長命令」が介在していることからすれば、これらの間に前記同一性、連続性を肯認するには、慎重な検討が必要である。

原判決によれば、右(イ)の謀議及び右(ロ)の①の謀議は、Zの殺害及び警護者の殺傷についての未必的認識(認容を含む。)を伴うZの拉致を内容とするものであり、右(ロ)の②、③の謀議は、Zの殺害についての確定的意図及び警護者の殺傷についての未必的認識を内容とするものであつて、両者の間に同一性、連続性を肯認し得るとするかの如くであるが(原判決は、そのことを、「被告人の意を受けて」あるいは「被告人の意思を実現し」といつた表現を多用することによつて示そうとしている。)、果たして右のような認定、判断をなし得るか、証拠によつて認められる事実に則して吟味しなければならない。この点については、次項以下に詳説する。

四<プリンスホテル謀議>について

1  謀議に至る経緯

原判決のいう<プリンスホテル謀議>(<経緯>4参照)は、被告人の直接関与した唯一の謀議である点において、共謀共同正犯としての被告人の刑責の有無を判断するうえで、決定的な重要性を有するものである。

前節で認定したように(前記第三の二の4の①ないし⑦参照)、プリンスホテルにおける謀議は、(イ)被告人とB、C及び電話で参加したU工事部長の四者間における協議並びに(ロ)一旦桜台に戻つたのち、とともにプリンスホテルを再訪したBと被告人との間における謀議の二段階を経て成立したものであるが、最終的な謀議内容が確定したのは、右(ロ)の時点においてである。

従つて、右<プリンスホテル謀議>の内容を確定するには、右(ロ)の時点における被告人とBとの合意の内容を明らかにすれば足りる筋合いであるが、この点を正確に判断するには、それまでの経過において、被告人、B、CらがZの殴り込みに対してどのような認識を持ち、どのような対応策を胸に描いて行動して来たかという背景についても、検討しておく必要がある。

原判決は、被告人とZとの間柄は、本件直前には、「もはや兄弟分としての実質を欠く険悪なものとなつて」いたとの前提の下に(<経緯>1、<判断>一参照)、Zが二回に亘り殴り込みを敢行し、しかも、その際、所属組織の応援をも得ていたことから、「これによつて、紛争は既に目黒総業の業務に関する問題の枠を超えた形となり、被告人としても、その立場上、そのまま放置することはできず、H組として組織上の対抗をし、Zに対し、相応の手段で報復を加えなければ納まりがつかない状態となつたというべきである」と推論し、このことと、被告人がBやCに「道具」の調達を指示していることなどを併せ考慮すると、「右『殴り込み』の事実を知つた時点で、既に被告人は、次第によつてはZ殺害に至ることをも含む報復を考えていたと推認すべきものである」との結論を導いている(<判断>一参照)。

しかし、証拠関係に照らして検討すると、原判決の右認定及び推論は、到底是認し難いところである。

たしかに、右殴り込み直前の時点における被告人とZとの関係は良好であつたものとはいい得ない。各自の服役中における相手方の行状などから、相互に不快の念を抱いていたことは事実であるし、出所後におけるZの虫のよい要求には被告人も手を焼いていたことが窺われる。しかし、それにもかかわらず、被告人は、Zの要求を大綱において受け入れ、その実現に努力していたのであり、かなり延引はしたものの、本件殴り込みの翌日である一〇月一九日からは、目黒総業から譲り受けた人夫がZの人夫として貞光建設で稼動する段取りができ上つていたのである(前記第三の二の1参照)。このような状況からすれば、被告人の方からZを攻撃する理由もなく、Zの側においても、ようやく要求実現に漕ぎつけたことで被告人に感謝する理由こそあれ、被告人に対し攻撃を仕掛ける理由はなかつたのである。従つて、両者の間が、一触即発の危険に満ちた険悪なものであつたとする見方には賛同できない。

それでは、何故、Zが二回に亘る殴り込みを敢行したのかという疑問を生ずるが、Zの「石狩」におけるVへの言動や、第二回殴り込みの際のUに対する弁解などを総合すると、同日葛西の飯場でUと別れたのち、飲酒するうち、当時目黒総業からの応援人夫につきZから目黒総業に支払うべき日当額についての交渉が未解決であつたことから、被告人の服役中に目黒総業の面倒を見てやつたのに被告人からの「返り」が少ないと考え、交渉をUに任せたきりで直接出て来ようとしない被告人に業を煮やし、被告人と直接対決して交渉に決着をつけようという気持になつたことが窺われる(前記第三の二の2の①②参照)。ただ、そのやり方は、酒の勢いとZの平素の粗暴な性格とが相まつて、いかにも理不尽かつ筋違いな形となつてしまつたのである。Zは、同年八月初めころの被告人との電話でのやり取りの際にも、いつまで待たせて俺を殺す気でいるのか、それなら俺の方からお前のところへ「乗つ込んで」やるからななどと脅しをかけており、事業上の交渉ごとに所属組織の勢威を利用しようとする傾向がある。しかし、このときのやり取りでも、被告人から、これはデパートの買物じやないんだぞ、今日頼んで明日できるというもんじやないことは分つてるだろう、ぎやあぎやあ言つて来るなら、いつでもいいから来てみろなどと強く言い返されると、一転して口調を改め、兄弟、何とかして仕事の話をつけてくれと懇願しているように、Zには「何ごともうまくいかないとわあーと強く出たかと思うと、さあーと引いたりするやり方をする」性癖があり、被告人もそのことを熟知していたのである(被告人の57・2・8付(員)、記録第五冊四九七丁以下)。Zは、本件殴り込みに際しても、ⅰ一家の者の応援を得、Vや電話して来たCに対し、これは極東と住吉のぶつかりだとか、被告人やCの命を取るなどと大言しているが、Uに叱責されてすごすご引き返しているように、龍頭蛇尾の結果に終つているのであつて、その後の同人の行動に照らして見ても、右殴り込みにより、被告人に対し、組織対組織の命を賭けた抗争を挑んだという意識のないことは明らかである。

そして、Zとのそれまでの交渉経過やZの性格を熟知している被告人が、右殴り込みの事実を知つた際に、紛争の本質は会社の業務上の問題であると考え、そのようなものとして対応策を講じたのは当然のことといえる。それ故、被告人は、Nに通報したEを叱責して通報を撤回させ、市川警察署の介入を求めさせ、翌日には正規の被害届を提出する手続を取るよう指示しているのである。Eを叱責した理由についての原判決の説示は、考え得る説明の一つではあるが、それが真実に合致するものとは認められない。

これに対し、従前の経緯に通じていないEやCは、殴り込みの態様やZの言動から、Zが組織対組織の抗争を仕掛けて来たものと受け止めるのが自然であり、ことに、電話で直接Zと言葉を交わし、「お前の命も取る」と言われたCの衝撃は大きく、Zを到底許すことはできないとの思いを胸中に育くんでいたものであることは、その後におけるCの言動の端々から容易に窺知することができる。しかし、Cは、Zとの電話の末を被告人には全く報告していないのである。

次に、被告人が組員らを桜台の組事務所に集結させたことにつき、被告人は、原審公判廷において、組員らに自由行動を許しておくと池袋近辺で極東の者と遭遇して紛争を起こす虞があつたので、これを避けるためである旨述べているが、それだけの目的であれば各自に自宅に留まつて出歩かないよう注意しておけば足りることであるから、右は単なる後日の弁疏というほかない。これに対し、原判決は、これを以て、「組事務所の防衛という面もあつたことはうかがわれるが」、「主としては」、「Zに対するH組としての報復の下準備であると推認すべ」きであるとしている(<判断>一参照)。しかし、Zの殴り込みを会社の紛争として捉え、警察に処理を委ねている被告人が、他方で組同士の抗争としての攻撃準備を主目的として組員らを結集するというのは不自然である。被告人が目黒総業に居たEを叱責した際、Zの方から桜台の組事務所に電話があれば、これは喧嘩だから、そうなれば俺も動くと述べているように、Zの方から組同士の抗争を挑んで来る可能性のあることを考え、これに備えるという目的が主体であつたものと認めるのが相当である。

被告人は、ベルメゾン○○にCを呼び寄せた際、「やるときはSに因果を含めて、道具と小遣いの二〇万円も持たせて飛ばせるからな」と言つているが、原判決は、Cは、この言葉と後記道具調達命令とから「被告人は、Zに対する報復としてその殺傷を企図しているものと判断し、次第によつては、被告人の意を受けて、Zを殺害しようとの決意を固め」たものと認定している(<経緯>3参照)。しかし、右の発言は、その前後の発言内容と総合すると、Sを使うということに積極的な意味を持たせたものではなく、やることになつた場合でもSを使うから、Cやその他の者は手を出すなという点に重点があり、組事務所の皆に動かないよう連絡しろという命令に付随して述べられたものである(前記第三の二の3の③参照)。そして、やるときはSを使うと繰り返し発言しながら、被告人が一向にSに対して指令を発する気配のない事実からすれば、被告人にはやる気がないと判断する方が自然であつて、原判示のような認定は相当でない。CのZに対する報復意思は、Zとの電話によるやり取りに触発されたものであつて、被告人は、Cに対しては、繰り返しお前は動くなと注意しているのである。

被告人が、ベルメゾン○○において、Cに対し、「道具」(けん銃ないし日本刀を意味する。)調達のためN方に行くことを命じた事実の有無については、これを肯定するCの検察官に対する供述調書と、これを否定するCの原審公判廷における供述及び被告人、g、hらの供述とが分かれている。いずれにせよ、道具調達の命令はBに対してもなされており、BとCは、N方に出向いて行つて、結局借用の申し出を断わられている。

道具の貸借に際し、組長である被告人や代貸のAが出向かず、しかも被告人が居留守を使つてまで、組員でないB、Cを派遣しているのは組織関係者の常識に反することから、被告人側は、これは興奮している組員らを鎮静させるための時間稼ぎの方便であり、断わられることを承知のうえでNによる説得を期待したものであると主張し、原判決は、被告人の武器入手の依頼は真剣なもので、「次第によつてはZを殺害することもやむをえないとする被告人の意思の表明である」という(<判断>二参照)。両者は、被告人が居留守を使つていることに関し、被告人に真実道具入手の意図があつたとすればその旨を電話ででもNに伝えられた筈であるとか、逆に被告人がNによる説得を期待していたとすればその旨を電話で同人に伝えることが可能であつたなどと、正反対の方向からの論拠に援用している(なお、依頼を受けたNは、これを被告人による「場面作り」に過ぎないと見ており、その命によつて事情を調査したは、被告人がNを利用しようとしたとして憤激している。)が、この点を深く詮索することは意味がない。Nに断わられたことを知つた被告人が「それでは道具は他にあたるか」と発言したか否かについても争われているが、少くとも、被告人らがその後道具入手のために努力した事跡の全くないことは証拠上明白であり、<プリンスホテル謀議>は、他から入手した道具のないことを当然の前提として進められているからである。

2  謀議の内容

<プリンスホテル謀議>成立に至る経過及びその結果は、さきに詳述したとおりである(前記第三の二の4の①、②及び⑦参照)。

二名以上の者が犯罪につき謀議を遂げる場合、その過程でさまざまな意見が述べられるのは当然のことであつて、重要なのは、関与者の最終的な合意内容として、どれだけのものが取り込まれたかということである。<プリンスホテル謀議>においても、当初、被告人、B、Cの間で種々の意見が述べられ、電話によるUの意見聴取などもなされたのち、被告人の決断で、Uの交渉に一任するという一応の結論が出されたのであるが、その後、桜台の組事務所に戻つたBが、その場の雰囲気から組員らは到底右の結論に承服せず、西葛西駅前でZら殺傷の挙に出る虞のあることを看取し、プリンスホテルを再訪して被告人との間にZ拉致を内容とする合意を成立させたのである。

原判決は、被告人、B、Cの間の協議において、被告人が「道具は他にあたるか」と言つたのは当初のZ殺害の決意に変わりがないことを示すとか、「Sを飛ばそうか」と言つたのはZ殺害の意図のあることを示すとか、IやOなど他の組に報復行為を依頼するようなことを口にするのは、H組組員の決起を促がす性質の発言であるとか判示しているが(<判断>三参照)、この段階での発言内容は、その場からOに電話して待機を依頼している点を除けば、Uをも加えた四者間の一応の結論の内容にも、被告人とBとの間の最終的合意の内容にもなつていないのである。のみならず、これらの発言から、被告人のZに対する殺意を肯認することも相当でない。道具とSについては、さきにも一言したが(前記1参照)、更に付加すれば、けん銃などの道具を入手したとしても、相手方の組事務所などに示威のために撃ち込むような使い方もあるから、つねに殺害を意図しているとは限らず、また、本当にSを使う場合であつても、Zの腕の一本も取つてやろうかと思つた(被告人の57・2・13付(員)、記録第五冊五五〇丁以下)というのであつて、直ちに殺害を意味するものではない。そして、IやOを使うというのは、相手に対する嫌がらせや業務妨害的な示威行為等を考えているのであつて、殺害とは無関係である。原判決の判断は、現実にZ殺害という事態が発生していることに、いささか影響され過ぎている嫌いなしとしない。

四者間の一応の結論というのは、UにZとの交渉を一任するということであつて、何らの犯罪をも構成しないから、取り立てて論ずるまでもない。

被告人とBとの間に成立した最終的合意の内容は、西葛西駅前からZを拉致して監禁するということである。この行為は相手の意思に反してなされるものであるから、相手が任意に応じない場合には、暴行脅迫を加えてでも抵抗を排除して強行する必要がある。しかし、彼我の人数に大差があり、兇器を突き付けられるなどした場合には、殆んど抵抗する余地はなく、脅迫に屈して逮捕、連行に応ぜざるを得ないのであろうから、拉致行為にはつねに暴行、傷害などの暴力行為が随伴するものとはいい切れない。むしろ、早朝、人通りの多い場所で拉致を成功させるためには、できる限り暴力的手段に訴えることなく、手取り早くことを運ぶ必要があるものというべきである。逆に、被告人やBらが西葛西駅前での拉致を計画したのは、右のようにことを運ぶことができるような条件が整つていることについて、ある程度の見とおしを有していたためであるとも考えられる。具体的にいうならば、Zは、Uと会つて貞光建設へ挨拶しに行くために西葛西駅前に来ることになつているのであるから、武器を携行するようなことはなく、単独又は運転手のと二人だけで現われる筈であり、相当な人数で兇器を示すなどして強要すれば、簡単に抵抗を断念させて拉致することができるとの予測を有していたものと認めるのが相当である。

この点に関し、原判決は、拉致の「計画を実行するにあたつては、Z側の抵抗を覚悟しなければならない状況であつたから、被告人はもとより、参加した組員らにおいても、場合によつては命のやりとりに及ぶことを予想し、未必的ながら、Z及びその警護者らに対する殺意を有していたものと認めるべきである」と説示している(<判断>三参照)。しかし、原判決のいう「Z側の抵抗を覚悟しなければならない状況」というのが、現実に存在した状況を指す趣旨であるとするならば、客観的にそのような状況の存在しなかつたことは証拠上明白であるし、被告人及びBの両名において、そのような状況が存在すると認識していたと窺うに足りる事情も認められない。もとより、抽象的な可能性の問題として論ずるのであれば、Zが武装した多数の者を同道して来るような事態も考えられないことはないし、そのような状況下で拉致を強行しようとすれば、原判決のいうように「命のやりとりに及ぶこと」も充分予想し得る。しかし、現実に存在せず、被告人らも認識していなかつたような仮定の状況を謀議の内容に持ち込むのは相当ではない。原判決は、拉致に向うに際し、Aが、柳刃包丁四本に加えて、回り道をしてまで脇差一本を入手携行していることや、組員らに対し「抵抗されたらぶつ刺せ」と指示したことを論拠の一つに挙げているが、人数や武器で圧倒的優勢を保つことが却つて抵抗なく拉致を成功に導き得るものであることを考慮すれば、過剰な兇器を準備することが直ちに未必の殺意につながるものとはいい難いし、Aが「抵抗されたらぶつ刺せ」と指示したことに対しては、もともと組員らの跳ね上り行動を押える目的で西葛西行きに同行したBが、実行担当班のCの車に対し、「絶対手を出すな、さらうだけにしろ」と念を押すことによつて撤回しているのである(前記第三の二の5の①参照)。Aは、Zが若い衆を大勢連れて来るだろうという意見に固執しているが、これは、Aが、UとZが待ち合せをしている目的等について詳しい事情を知らないことと、大言壮語する割に実行の場面ではつねに安全な場所に逃避する性癖から、この場合も車二台を用意し、自分は実行担当班でない方の車に乗ろうと画策したことによるものと認めるべきであつて、<プリンスホテル謀議>成立時における被告人及びBの認識とはかけ離れたものというべきである(前記第三の二の4の⑧参照)。更に、原判決は、前記認定のもう一つの論拠として、被告人が、捜査段階で、拉致に際し「血の雨が降ることさえあるかも知れない」とか、「命のやりとりの戦争になる場合だつてある」と述べていることを挙げているが、いずれも相手が抵抗して暴れた場合はどうかとか相手の方が人数を揃えて来た場合はどうかという仮定論に対する回答に過ぎず、<プリンスホテル謀議>に際して被告人が実際にそのような場面が生ずることを予想していたことの証拠となるものではない。

もとより拉致行為は相手の意思に反して強行するのであるから、相手の抵抗を抑圧するに足りるだけの人数と兇器を整えて決行した場合であつても、相手が絶対に抵抗しないとはいい切れないし、逃走を図る場合も考えられるから、相手の身柄を確保するための必要最小限の暴行はつねに予定されているといえるし、また、拉致に成功した場合の処置として、被告人は、三芳町のCの家に連れて行き、「ぶつちめて」縛り上げ、転がして見張りをつけておくよう指示しているのであるから、監禁段階における暴行も容認しているものと認められる。そして、傷害及び傷害致死(ないし監禁致死。以下同じ。)は暴行の結果的加重犯であるから、拉致の過程に随伴し、あるいは監禁中に加えられた暴行に起因するものである限り、最大限傷害致死の結果までは、拉致の共謀の内容に包含されているものということができる。しかし、その限界を越え、未必的であるにせよ相手の殺害を認容することは、本件のような目的による「拉致」の観念と正面から矛盾することとなるものといわざるを得ない。何故ならば、拉致の目的は、被拉致者を人質としてその上位者と話し合いを持ち、相手方の譲歩を引き出すことにあるのであつて、被拉致者を殺害してしまつては、交渉のための有利な地歩を喪うのみならず、却つて自己の方が相手方から譲歩を迫られる立場に追い込まれてしまうからである(これは、当の目標とされた被拉致者本人ではなく、その警護者を殺害した場合にも、同様に当て嵌まることである。)。現に、被告人は、Zの拉致に成功した場合には、総長に話を持ち込み、総長を通じてZの上位者であるiと交渉し、Zを堅気にさせるか、そうでなくても、今後は目黒総業に出入りや口出しは一切させず、西葛西の現場を譲る話はなかつたことにするということで決着をつけようと図つており、拉致失敗を知つて総長と相談をした際にも、総長の言うようにiの方から話し合いを申し入れて来たら、右の「きつい条件」を要求する肚心算でいたものであつて(被告人の57・2・15付(員)、57・2・18付(員)、記録第五冊五七四丁以下、同六〇四丁以下)、Zを殺害してしまうことは、念頭になかつたのである。

以上を総括すれば、(イ)<プリンスホテル謀議>における被告人及びBの間に成立した合意の内容は、西葛西駅前からZを拉致して三芳町のCの家まで連行し、「ぶつちめて」監禁しておくことであり、(ロ)右の拉致の手段としての暴行あるいは監禁の機会における暴行及びその結果としての傷害あるいは致死までは右謀議の内容に含まれるが、(ハ)未必的であるにせよ、Z又はその警護者を殺害するということは、謀議の内容に含まれていないということである。

従つて、原判決が、「ここに被告人とBとの間で、Z及びこれを警護する者らに対する未必的殺意を伴つた拉致の共謀が成立した」と認定しているのは(<経緯>4参照)、事実を誤認したものというべきである。そして、右未必的殺意の存在が、本件<プリンスホテル謀議>と、その後における原判示<成増エレベーター謀議>及び襲撃直前のA以下の実行グループによる謀議の内容をなすZ殺害の企図とを結び付け、全体としての殺人の共謀を肯認するための重要な鍵となつていることに照らせば、右の誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

3  BとA以下の者との間の謀議

被告人とBとの間に成立した<プリンスホテル謀議>は、桜台に戻つたBによつてAに、そして同人を介して拉致に関与した全員に伝達され、ここに被告人、B、A、C、D、E、F、S、X、Yの一〇名によるZ拉致の共謀が成立した。

Aが、Zが若い衆を大勢連れて来るだろうとの意見に固執し、その予測に応じた大掛かりな作戦計画を立てたことは前述のとおりであり、また、その余の組員らは、もともとZを待ち伏せて現場で殺傷しようと意気込んでいたものである。しかし、Bは、Uに一任するという被告人の方針と、Z殺傷を呼号する組員らとの中を取つてZ拉致という線で全体を取り纒めることとし、まず、被告人の同意を得、次いでこの方針をA以下の組員らに伝達したのであるから、Bを介して成立した一〇名の間の順次共謀は、被告人とBとの間の合意の枠を越えるものではない(仮りに、これを越える部分があるとすれば、その部分は、被告人との間の順次共謀には含まれない別個の新たな共謀ということになる。)。従つて、原判決が、「ここに前記のような未必的殺意を伴う拉致の共謀が、A以下の組員らとの間にも順次成立した」(同前)と認定している点も、前同様の理由により、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認というべきである。

4  拉致の失敗と共謀関係の存続

前示のように(前記第三の二の5の③参照)、右共謀に基づく拉致の実行は失敗に帰した。一般的にいえば、犯行の日時、場所、対象等を特定してなされた犯罪の共謀関係は、その実行に成功した場合は勿論のこと、失敗が確定した場合にも、再度決行する余地がないという意味において、解消したものと見られることが多いであろう。

本件の拉致においても、犯行の日時、場所、対象は一応特定している。しかし、午前七時半、西葛西駅前という日時、場所の特定は、偶々ZがUと待ち合せの約束をしているとの情報を入手したため、その機会ならZを発見し易いというだけのことであつて、犯行の日時、場所を限定し、それ以外の実行は不可とするような性質のものではない。

拉致に失敗したことにより、今後のZの所在を把握することが困難となり、また、Zが警戒して拉致の実行に一層困難を来たすことは予想されるけれども、今後、どこかで偶々Zと遭遇し、周囲の状勢が拉致を可能とするような機会に恵まれた場合に、共謀者の全部又は一部の者が拉致を決行すれば、それは、やはりさきに成立した拉致の共謀に基づく実行行為と見て差し支えないであろう。

従つて、被告人から共謀関係解消の明確な指示がなされていない以上、西葛西駅前での実行失敗にもかかわらず、<プリンスホテル謀議>に基づくZ拉致の共謀関係は、なお存続していたものと認めるのが相当である。ちなみに、原判決は、<ベルメゾンにおける被告人の発言>(<経緯>8参照)から、Cが被告人の殺意を感得確認したと認定しているが、首だけ出して地中に埋めるという方法はむしろ殺害を否定するものであり、却つて、被告人がこの時点においてもZの拉致という方法に執着していることの証左というべきである。

五<成増エレベーター謀議>について

原判決のいう<成増エレベーター謀議>とは、拉致に失敗したのち、Bらが三代目の事務所に立ち寄つた際、成増マンションの一階から四階に上るエレベーターの中で、Bが「二一日からIさんのところで動くことになつている、よそにやられたらみつともない、うちでやるより仕方ない」と発言し、これを聞いたA、C、Dが直ちにその趣旨を了承し、Zの殺害及び警護者に対する未必的殺傷の合意を遂げたというのである(<経緯>6参照)。

Z方襲撃直前におけるA以下の実行グループ間における謀議がZの殺害及び警護者に対する未必的殺傷の合意を内容とするものであることは、証拠上明らかである。

そこで、<成増エレベーター謀議>は、右A以下による襲撃決行の謀議との同一性、連続性を認めることによつてBの共謀共同正犯としての刑責を肯認するとともに、<プリンスホテル謀議>との同一性、連続性を認めることによつて被告人の共謀共同正犯としての刑責を肯認するための、極めて重要な役割を帯びていることとなる。しかも、それは、エレベーター内のごく短時間に交された簡単な会話から成つているため、そのような発言の存否自体が争われるとともに、その趣旨についても争いが存するのである。

本件では、被告人の共謀共同正犯としての刑責の存否が問題とされているのであるから、その判断に必要な限度で検討すると、たとえ原判示のとおりのBの発言が存在し、その趣旨とするところが原判示のようにZの殺害等を含むものであるとしても、ここで成立したとされる謀議は、前述の<プリンスホテル謀議>を越える範囲において、これとは同一性、連続性を有せず、Bら四名による別個の新たな共謀であるといわざるを得ない。Bの561225付(検)(記録第七冊一〇六六丁以下)によれば、同人は、成増エレベーター内で前記認定のような発言をしたことを認め、その趣旨は、自分の気持としてはどうしてもZの命を取らなければいけないとまで考えていた訳ではないが、A、C、DはもともとZの命を取ることを強硬に主張していた連中であり、拉致に失敗したため、又Zの命を取る気になつていることは分かつているので、自分としては最早ことの成行きに任せるほかないと肚をくくり、状況に応じていざというときには自分が先頭になつてZの命を取りに行くこともあり得ると決意し、そのことを表明したものであると述べており、状況次第という条件付きではあるが、Z殺害の意図を生じたことを認めている。これは、明らかに前記<プリンスホテル謀議>の枠を踏み越えたものである。Bは、ことの成行きに任せるほかないと考えており、その成行きの中には、Zの拉致に成功しそうな機会が再度訪れて拉致を試みるということも含まれ得るし、その拉致に際して傷害あるいは致死の結果を生じたというのであれば、なお<プリンスホテル謀議>の予定する範囲内の行為及び結果ということができるが、当初からZ殺害を意図して行動するということは、その範囲には含まれていない。原判決は、<プリンスホテル謀議>につき未必的殺意を肯認しているため、<成増エレベーター謀議>により、その未必的殺意を伴う拉致の実行が確定的殺意によるZの殺害等に「絞られるに至つた」と評価しているのであるが、前述のとおり、その前提には事実の誤認があり、Zの殺害(及び警護者の殺傷)は、当初の謀議に含まれていなかつたものが新たにつけ加えられたのである。

<成増エレベーター謀議>のうち、<プリンスホテル謀議>の範囲を越えて新たにつけ加えられた部分は、Bら四名による新たな謀議というべきであり、これが更に謀議関与者の数を加え(EとF)、内容を具体化したものが襲撃直前におけるA以下の実行グループ間の謀議である。

従つて、いわゆる「総長命令」による中止の性格を論ずるまでもなく、被告人のZ殺害の謀議関与は否定される。

六傷害致死罪の成否

前述のように(前記四の4参照)、Zの拉致に失敗した後も、Z拉致を内容とする<プリンスホテル謀議>はなお存続していたものと認めるのが相当であり、右謀議には、拉致に随伴し、あるいは監禁の機会における暴行、その結果としての傷害あるいは致死までも包含されているのである。そうだとすれば、<成増エレベーター謀議>以降におけるZ殺害等の合意が、当初の<プリンスホテル謀議>の範囲を越えるものであつたとしても、少くとも両者が重なり合う範囲、すなわちZらに対する傷害致死の限度で、A以下の実行グループが決行した行為及び結果につき、被告人の刑責を肯認すべきではないかとの疑義を生ずるので、この点についての判断を示すこととする。

仮りに、<プリンスホテル謀議>に基づき西葛西駅前でZの拉致を実行した際、実行正犯者がZに暴行を加えた結果同人を死亡させるに至つた場合には、被告人を含む謀議参加者全員に傷害致死の刑責を認め得ることは当然である。この場合において、実行正犯者の中にZに対して確定的あるいは未必的殺意を有する者が含まれていて、その者の加えた暴行により同人を死亡させるに至つたときは、殺意を以て暴行を加えた者については殺人の、その余の謀議関与者については傷害致死の刑責を認むべきこととなろう。

これと同じことが、A以下の実行グループがZ方を襲撃してZほか一名を殺害した本件の場合にもいえるであろうか。

この間には、いわゆる「総長命令」による中止の問題が介在している。拉致失敗後も存続して来たと認められる<プリンスホテル謀議>は、「総長命令」によつて解消することとなつたのであろうか。証拠によれば、「総長命令」は、絶対的、永続的禁止ではなく、期限付、条件付きの一時的凍結であつたものと認むべきである。そして凍結期間中も、<プリンスホテル謀議>は潜在的に存続していたものというべきであるから、この期間内であつても、右謀議に基づく犯罪が実行されれば、謀議関与者の刑責は肯認されるべきである。従つて、「総長命令」の存在自体は、刑責認定の障害となるものではない。

問題は、その点よりも、A以下の者による実行行為が<プリンスホテル謀議>に基づくものといえるかどうかという点にある。さきの設例では、右謀議に基づくZ拉致の実行に伴う殺害行為であつた。この場合であれば、殺意を有する者が一人だけでなく、実行行為担当者全員が殺意を有し、しかも相互に共謀を遂げていたとしても、結論は変らない。殺害の共謀に関与していた者には殺人の、その余の謀議関与者には傷害致死の刑責が認められる。然るに、A以下の者の実行した行為態様は、Zの自宅に侵入し、有無を云わせずZ及び抵抗した同居人を殺害するというものであつて、最早、拉致の謀議に基づく実行行為中における殺害という類型にはあてはまらないものである。客観的な行為態様のみならず、実行担当者の主観的な意識の面をも併せ見れば、そのことは一層明瞭に看取することができる。すなわち、Z方に対する襲撃は、もともとH組代貸としての面子に拘泥しており、前夜来のEの執拗な煽動によつて一層これを痛感させられていたAにおいて、二〇日早朝、Zの所在が判明したことを契機として決意し、被告人に面倒を見てもらえる訳じやないというSの反対を、これは被告人のためではなく、代貸としての男の意地のために行くんだと抑えたうえ、その趣旨に賛同したE、F、上板橋駅前から合流して同様に賛同したC、Dの四名を指揮して決行したものであつて、実行グループに属する者たちには、最早<プリンスホテル謀議>に基づく拉致の実行という意識はなかつたのである(前記第三の二の9の①ないし③参照)。

そうだとすれば、さきの設例の場合とは事実を異にすることが明らかであつて、本件においては、被告人に対し、傷害致死罪の限度においても、その刑責を問い得ないものというべきである。

七結語

叙上縷説のとおり、被告人に対し、Zほか一名の殺害についての共謀共同正犯の刑責を認めた原判決は事実を誤認したものであり、右誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い、被告事件について更に次のとおり判決する。

第五自判の判決

本件公訴事実は、

「被告人は、B、A、D、C′ことC、E及びFと共謀のうえ、昭和五六年一〇月二〇日午前八時四〇分ころ、東京都板橋区○○三丁目一〇番八号第二△△荘一〇六号室Z(当時四三年)方において、〔第一〕右Zに対し、殺意をもつて、所携の柳刃包丁で、その胸部、腹部などを数十回にわたり突き刺し、よつて、そのころ、同所において、同人を心臓を貫通する胸部刺創により失血死させて殺害し、〔第二〕r(当時三七年)に対し、殺意をもつて、所携の柳刃包丁で、その胸部などを数回突き刺し、その頸部を一回切りつけ、よつて、そのころ、同所において、同人を大動脈を損傷する胸部刺創により失血死させて殺害したものである。」

というのであるが、すでに詳述したように、検察官の全立証を以てしても、被告人において、右B及び実行正犯であるAほか四名と、本件各殺害行為を共謀したものである事実につき、合理的な疑いを容れる余地のないまでにその証明がなされたものとするに由ないところである。

従つて、本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪を言い渡すべきものとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官草場良八 裁判官半谷恭一 裁判官龍岡資晃)

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